7月12日【今日は何の日?】「ラジオ本放送開始の日」100年間を振り返って

はじめに:電波が変えた世界

今からちょうど100年前の1925年7月12日、東京・愛宕山から響いた電波が日本を変えました。この日は「ラジオ本放送の日」として記念される、日本の放送史における重要な節目です。東京放送局(現NHK)が愛宕山の本格的な放送所から本放送を開始し、新たなメディア時代の幕開けとなったのです。

実は、この記念日には意外な背景があります。1923年の関東大震災という大災害が、ラジオ導入の契機となったのです。災害時における情報伝達の重要性が認識され、ラジオ放送の開局が急がれました。今回は、この革命的なテクノロジーが世界と日本にもたらしたイノベーションの軌跡を辿ってみましょう。

世界のラジオ史:天才たちが紡いだ電波の物語

マルコーニとフェッセンデン:無線通信の父たち

ラジオの物語は、19世紀末の天才発明家たちの情熱から始まります。「無線通信の父」と呼ばれるイタリアのグリエルモ・マルコーニは、電線に頼らない革新的な通信技術を確立しました。

1896年、まだ22歳だったマルコーニは2kmの無線通信に成功。翌年にはドーバー海峡を越える通信を実現し、1901年には大西洋横断通信という偉業を成し遂げて世界を驚愕させました。ただし、この時点ではまだモールス信号による単純な通信に限られていました。

音声を電波に乗せるという画期的な発明を成し遂げたのは、カナダ出身のレジナルド・フェッセンデンです。エジソンの元で技術を磨いた彼は、1900年に世界初の音声電波送信に成功(歪みはありましたが)。さらに研究を重ね、1906年のクリスマス・イブ、マサチューセッツ州から歴史的な放送を行いました。クリスマスの挨拶、生演奏のクリスマスキャロル、聖書の朗読——これが世界初の「ラジオ放送」の瞬間でした。

当時の人々の驚きを想像してみてください。遠く離れた場所から音楽や人の声が聞こえてくるなんて、まさに魔法としか思えない体験だったでしょう。

KDKA局:商業放送という革命

1920年11月2日、アメリカ・ピッツバーグのKDKA局が歴史を変えました。世界初の商業ラジオ放送が始まったのです。記念すべき第一声は、その日行われたアメリカ大統領選挙でのウォレン・ハーディング当選の速報でした。

KDKA局の誕生には興味深い背景があります。その起源は、ウェスティングハウス社の技術者フランク・コンラッドが1916年に始めたアマチュア局8XKでした。つまり、一人の技術者の趣味が、やがて巨大なメディア産業の出発点となったのです。

ウェスティングハウス社は自社製品の宣伝を目的にKDKA局を開局しましたが、これが従来のアマチュア無線と決定的に異なったのは「商業放送」と「定時放送」という概念を確立したことでした。予告された時間に予告された内容を放送するという、現在では当たり前のスタイルがここから始まったのです。

ラジオブームは瞬く間にアメリカを席巻しました。1920年代を通じて年間100万台ずつ生産が増加し、ラジオメーカーの株は「ラジオ株」として投資家の注目を集めました。現代の「ドットコムバブル」を彷彿とさせる熱狂ぶりだったのです。

日本のラジオ史:災害から生まれた放送文化

関東大震災が切り開いた道

皮肉なことに、日本のラジオ導入は巨大災害がきっかけでした。1923年の関東大震災により、有線通信の限界が露呈したのです。東京の通信インフラが壊滅的被害を受ける中、広範囲にリアルタイムで正確な情報を伝える手段の必要性が痛感されました。

この教訓が、日本政府にラジオ放送事業の本格的な検討を促しました。災害時でも確実に機能する無線通信として、ラジオに大きな期待が寄せられたのです。

困難を乗り越えた放送開始

1925年3月22日午前9時30分、歴史的な瞬間が訪れました。東京・芝浦の東京高等工芸学校(現在の東京科学大学附属科学技術高等学校)に設けられた仮放送所から、京田武男アナウンサーの声が響きました。

「アーアー、聞こえますか。……JOAK、JOAK、こちらは東京放送局であります。こんにち只今より放送を開始致します」

しかし、この歴史的瞬間に至るまでには数々の困難がありました。当初3月1日の放送開始を目指していた東京放送局でしたが、2月28日の逓信省審査で「すべてが未完成で放送に不適当」と判断されてしまいます。そこで「試験送信」として放送を開始し、3週間の試験期間を経て、ようやく3月22日の仮放送(仮施設からの正式放送)にこぎつけたのです。

当時のエピソードで印象的なのは、第一声の「アーアー」です。使用していた「探り式鉱石受信機」では、聴取者が鉱石の針先を最適な位置に調整する必要があったため、調整時間を設けたのです。現代のデジタル技術からは想像もできない、アナログ時代ならではの微笑ましい配慮でした。

愛宕山からの本格始動

そして迎えた1925年7月12日——現在の「ラジオ本放送の日」です。東京放送局は愛宕山の本格的な施設に移転し、出力を1キロワットに増強して本放送を開始しました。新たに導入されたWE社製の高性能送信機により、放送品質は格段に向上しました。

当時の人々の熱狂ぶりを物語るエピソードがあります。聴取者数10万人突破を記念して製作された特別な駅鈴が今も残されており、ラジオに対する人々の期待と興奮が伝わってきます。

意外すぎる初期番組

初期のラジオ番組表を見ると、現代人は驚くはずです。大正末期の東京、名古屋、大阪3局の平日番組は、朝9時から午後4時までの大部分が株式市況や商品相場で占められていました。まるで現在のラジオ日経のような経済情報専門局だったのです。

これは興味深い現象でした。地方の富裕層がこぞって高価なラジオを購入したのは、娯楽目的ではなく情報収集のためでした。つまり、ラジオは初期の携帯電話やインターネット回線と同様、「IT投資」としての側面が強かったのです。

統合から戦争協力へ

1926年8月20日、東京、大阪、名古屋の3放送局が統合され、社団法人日本放送協会が誕生しました。これにより全国統一のラジオ放送体制が確立されました。

しかし、戦争の時代が近づくにつれ、ラジオは暗い役割を担うようになります。「ラジオが戦争をあおり、日本を戦争に駆り立てた」と後に総括されるように、国民動員の重要な手段となってしまいました。

それでも、戦時中には意外な番組も放送されていました。1942年8月15日、ニュースに続いて放送された「放送劇」は火野葦平作の「怪談宋公館」でした。戦争の最中に怪談番組が放送されていたという事実は、当時の日常生活の複雑さを物語っています。

戦後復興とテレビ時代の挑戦

戦後、ラジオは復興のシンボルとして再注目されました。戦災と部品不足で多くの受信機が失われていたため、民主化政策の一環として、教育メディアとしてのラジオ増産が急務とされました。

転機は1950年代後半でした。1959年にテレビ視聴者が100万人を突破すると、ラジオの聴取者数は減少の一途をたどりました。家庭の娯楽の中心がテレビに移り、ラジオは通勤時間や深夜、自動車の中など、より個人的でパーソナルなメディアへと変化していったのです。

インターネット時代の革新:ラジコという救世主

2010年、デジタル革命の始まり

テレビの台頭で衰退が危惧されたラジオに、21世紀の救世主が現れました。2010年3月にサービスを開始したradiko(ラジコ)です。

radikoの誕生には切実な背景がありました。若年層のラジオ離れが深刻化する一方で、都市部では高層ビルの増加により電波状況が悪化し、ノイズの多い受信環境に悩まされる聴取者が増えていたのです。

デジタル化がもたらした新世界

インターネットラジオの登場は、ラジオに新たな可能性をもたらしました。地理的制約を超えてどこでも聴取でき、映像や文字情報も同時配信できる。制作コストの削減により、期間限定の番組や特別企画も実現しやすくなりました。

統計データも興味深い変化を示しています。radikoの聴取者平均年齢は38.8歳と、従来の放送による聴取者(49.6歳)より10歳以上若くなりました。さらに、深夜24時でも高い聴取率を維持するなど、ライフスタイルの多様化に対応した利用パターンが生まれています。

短波ラジオ:国境を越える希望の電波

自由の周波数

ラジオの歴史を語る上で、短波放送は特別な意味を持ちます。短波は電離層での反射により遠距離通信が可能で、国境を越えた情報伝達の重要な手段となってきました。第二次大戦中、BBCワールドサービスやVOA(Voice of America)は、占領下の人々に自由の声を届け続けました。

短波による国際放送の実用化は1923年12月29日、米国KDKAの短波実験局8XSが英国への番組中継に成功したことから始まります。物理的な国境線を飛び越える「自由の電波」の誕生でした。

現代の人道的使命:「しおかぜ」

21世紀の今日、短波ラジオは予想外の重要な役割を果たしています。その象徴が、北朝鮮向けラジオ放送「しおかぜ」です。

2005年10月、特定失踪者問題調査会により、日本人拉致被害者への呼びかけを目的とした放送が開始されました。約20年間毎日続けられているこの放送は、脱北者や日本人妻の証言により、実際に北朝鮮で聴取されていることが確認されています。

心に届くメッセージ

「しおかぜ」の放送内容は、人の心に直接語りかけるものです。「○○さん、昭和○年○月○日生まれ、昭和○年○月○日、○○県○○市で失踪。当時○歳、現在○歳。」という名前の読み上げから始まり、家族からの直接のメッセージまで、様々な内容が放送されています。

最も印象的なエピソードは、曽我ひとみさんが母みよしさんに向けて発した「かあちゃんっ!」という呼びかけです。この一言で、番組スタッフも涙が止まらなかったと言います。短波の電波に込められた愛情は、物理的距離も政治的障壁も越えて届けられる希望の光なのです。

困難を越えて

「しおかぜ」の運営は容易ではありません。北朝鮮では民間人の短波受信が厳しく規制されているため、効果を疑問視する声もあります。しかし、北朝鮮当局が継続的にジャミング(妨害電波)を発射している事実こそが、放送の有効性を証明しています。

資金面の課題も深刻です。年間送信費用は約2300万円でしたが、2023年4月からは放送時間拡大と電気代高騰により約3300万円に増加しました。

それでも活動が続けられているのは、その意義が証明されているからです。多くの脱北者が北朝鮮内で海外ラジオを聴取していたことが確認されており、2002年に帰国した曽我ひとみさんの夫・故ジェンキンスさんも実際に日本の放送を聴いていたという証言があります。

政府との連携

日本政府も独自の北朝鮮向け短波放送を実施しています。「ふるさとの風」(日本語)と「日本の風」(朝鮮語)は、拉致被害者に向けた政府からのメッセージを伝えています。民間の「しおかぜ」と連携し、被害者家族のメッセージや地元合唱団の歌声を収録する公開イベントも開催されています。

デジタル時代の短波の価値

インターネット全盛の現代において、短波ラジオの存在意義は何でしょうか。それは、あらゆる検閲や技術的制限を突破できる「自由の周波数」としての価値です。インターネットは遮断可能ですが、短波電波は物理法則に従って確実に地球規模で伝播します。

「しおかぜ」のような人道的短波放送は、技術進歩により価値が減るどころか、むしろその重要性を増しています。情報統制の厳しい地域の人々にとって、短波ラジオは今なお希望への扉なのです。

ラジオが社会にもたらした革命的変化

情報革命:民主化されたリアルタイム情報

ラジオの登場は情報流通の革命でした。それまで新聞や口コミに依存していた情報伝達が、リアルタイムで広範囲に届けられるようになったのです。政治的演説も一般国民に直接届けられ、情報の民主化が進みました。これは現代のインターネットに匹敵する画期的な変化でした。

エンターテインメント革命:家庭に届く娯楽

当初はニュース中心だったラジオも、次第にエンターテインメント性を高めていきました。スポーツ中継、音楽番組、コメディアンのトークショーなど、多様な娯楽が家庭に届けられるようになりました。

日本では興味深いエピソードがあります。吉本興業が所属芸人のラジオ出演を禁止していた中、桂春團治が無断で出演し、罰として財産を差し押さえられました。すると春團治は「自分の最大の財産は口だ」として自ら口を封じるパフォーマンスを行い、その写真が新聞に掲載されて大きな話題となりました。結果的に寄席は大入りとなり、「ラジオが伝統芸能への関心を高める存在」であることが証明されました。

災害対応メディアとしての真価

ラジオの真価が最も発揮されるのは災害時です。1995年の阪神・淡路大震災では、災害時情報伝達メディアとしてのラジオの重要性が再認識されました。東日本大震災でも、電力供給が断たれテレビやインターネットが使えない状況で、電池駆動のラジオが被災者の生命線となりました。この価値は、デジタル時代の今でも変わりません。

広告とビジネスモデルの革新

ラジオは広告業界にも革命をもたらしました。紙媒体中心だった広告が、音声による効率的で低コストな宣伝手段を得たのです。1922年頃に始まったとされる世界初のラジオCMから、「民間放送」というビジネスモデルが確立され、現代のインターネット広告の先駆けとなりました。

教育革命:遠隔学習の先駆け

ラジオによる教育番組、特に語学学習番組は現在でも多くの支持を集めています。場所を選ばず、他の作業をしながらでも学習できるラジオの特性は、継続的な学習に適していました。NHKの語学講座は、現代のオンライン学習の原型とも言える遠隔教育の先駆けでした。

現代への示唆:ラジオから学ぶイノベーションの法則

技術の民主化力

ラジオの歴史から見えるのは、技術の民主化がもたらす社会変革の力です。かつて特権階級だけが享受していた情報や娯楽が、ラジオにより一般大衆にも届けられるようになりました。これは現代のスマートフォンやインターネットの役割と本質的に同じです。

災害時インフラの重要性

災害時にその真価を発揮するラジオの存在は、私たちに重要な教訓を与えています。最新技術への過度な依存は危険で、シンプルで確実に動作する技術の価値を忘れてはなりません。

新旧技術融合の可能性

radikoの成功は、古い技術と新しい技術の巧妙な組み合わせの好例です。既存のラジオ放送をインターネットで配信することで、若年層の復帰と利便性向上を同時に実現しました。これは他業界でも参考になるイノベーションモデルです。

実際、私も中学生の頃はradikoを使って勉強しながらSCHOOL OF LOCK!を聴いていました。また、寝る前にはJET STREAMを流していましたが、その落ち着いた雰囲気で自然と眠りに誘われ、とても印象深い思い出となっています。

おわりに:電波が紡ぐ未来

1925年7月12日から100年の歳月が流れました。ラジオは戦争を経験し、テレビに主役の座を譲り、インターネット時代に新たな価値を見出してきました。そして現在、短波ラジオは国境を越えて人々の心をつなぐ人道的使命を担っています。

NHK放送文化研究所の調査によると、今でも国民の36%がラジオを聴いているそうです。この「古い」技術が現役であり続ける事実は、メディアの本質的価値を物語っています。

AM・FMからradikoまで、そして短波による国際人道放送まで——技術は進歩しても、人々の心に寄り添うメディアの本質は変わりません。100年前に愛宕山から響いた「JOAK、JOAK、こちらは東京放送局であります」という声は、今もradikoを通じて私たちの日常に溶け込み、短波を通じて希望を失いかけた人々に励ましを届けています。

次の100年、ラジオはどんな進化を遂げるのでしょうか。その答えは電波に乗って、きっと私たちのもとに届けられるはずです。そして今夜も、どこかで短波ラジオから流れる故郷の言葉に耳を澄ませている人がいます。その事実こそが、ラジオという技術の真の価値を物語っているのです。

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