中国科学院遺伝発育生物学研究所の唐善杰(Shanjie Tang)らの研究チームが、イネ植物がDNA配列を変更することなく寒冷耐性を遺伝的に継承できることを実証した研究結果を、2025年5月22日付けでCell誌に発表した。
研究チームは、寒冷に敏感なアジアイネ(Oryza sativa L.)の品種を用い、植物が繁殖準備段階に入った際に-15°Cの環境に7日間置く実験を実施した。最も多くの種子を生産した植物の種子を収集し、次世代にも同様の寒冷ストレスを与える実験を繰り返した結果、第3世代までに寒冷ストレスにもかかわらず多くの種子を生産する品種が現れた。この能力は実験を継続した5世代にわたって維持された。
研究チームは、この適応がDNA配列の違いによるものではないことを確認するため、寒冷耐性植物と非耐性植物の両方のゲノムを配列決定した。その結果、植物の寒冷耐性に寄与する遺伝的差異は発見されなかった。
代わりに、研究者らは「エピジェネティック」マーカーの違いを発見した。寒冷耐性植物は、非耐性植物と比較して、特定の遺伝子の開始部分に追加される化学タグが少なく、この遺伝子を「獲得寒冷耐性1(ACT1)」と命名した。通常条件下で栽培された植物でこれらの化学タグを不活性化すると寒冷ストレスに耐えられるようになり、タグを元に戻すとその能力を失うことが確認された。
さらに、中国全土で栽培されている131のイネ品種を調査した結果、最も寒冷な北部地域の作物はACT1遺伝子の化学タグが少なく、温暖な南部沿岸地域の作物はタグが豊富であることが判明した。この結果は、イネの北方への地理的適応にこの特徴が関与していることを示唆している。
References:
‘Landmark’ evolution study shows how rice inherits tolerance to cold without DNA changes
【編集部解説】
イネの寒冷耐性研究は近年急速に進展しています。2024年10月にはCOLD6遺伝子による新たな寒冷感知経路が発見され、2021年にはqCTBB9という別の寒冷耐性遺伝子座も特定されています。今回のACT1遺伝子を介したエピジェネティック機構は、これらの従来研究とは根本的に異なるアプローチを示しています。
従来の寒冷耐性研究では、COLD1、COLD6、CTB3、CTB4aといった特定の遺伝子の変異や発現変化に焦点が当てられてきました。これらの研究では、DNA配列の変化や遺伝子の発現調節が主要なメカニズムとされていました。しかし、今回の研究は、DNA配列を一切変更せずに寒冷耐性を獲得できることを実証した点で画期的です。
従来の品種改良では寒冷耐性の獲得に長期間を要していました。例えば、qCTBB9の研究では460個体のF2:3集団を用いた長期的な選抜が必要でした。今回の研究で示された3世代での適応は、従来の自然選択による進化では数百から数千世代が必要とされる変化を、極めて短期間で実現したことになります。
気候変動により、世界で1500万ヘクタール以上のイネ栽培地域が既に寒冷化の影響を受けており、24カ国でイネ栽培に深刻な課題が生じています。従来の分子育種では、COLD6-OSM1複合体のような特定の遺伝子モジュールを標的とした改良が行われてきましたが、今回発見されたエピジェネティック機構は、環境ストレスを意図的に与えることで短期間で望ましい特性を持つ作物を開発できる可能性を示しています。
イネ以外の作物でも類似のエピジェネティック機構が存在する可能性が示唆されています。特に、脂質代謝経路に関わる遺伝子群(qPSST6、OsLTPL159など)との相互作用により、より包括的な寒冷耐性システムの構築が期待されます。
ただし、エピジェネティックな変化は環境要因によって再び変化する可能性もあり、その安定性や持続性については更なる検証が必要です。また、意図しない副作用や生態系への影響についても慎重な評価が求められるでしょう。
【用語解説】
エピジェネティクス:
DNAの文字列(塩基配列)を変えずに、遺伝子のオン・オフを制御する仕組み。
ACT1遺伝子(獲得寒冷耐性1):
今回の研究で発見された、イネの寒冷耐性に関わる遺伝子。この遺伝子の周辺にあるメチル基の量によって、寒冷に対する強さが決まる。従来発見されているCOLD1、COLD6、CTB3などの遺伝子とは異なるメカニズムで機能する。
COLD6遺伝子:
2024年に発見された、イネの寒冷感知に関わる遺伝子。OSM1タンパク質と複合体を形成し、2′,3′-cAMP分子を介した新たな寒冷感知経路を形成する。ACT1とは独立したメカニズムで寒冷耐性に寄与する。
qCTBB9:
発芽期の寒冷耐性を制御する量的形質遺伝子座。Os09g0444200遺伝子が候補遺伝子として同定されており、脂質代謝経路を介して寒冷耐性に関与すると考えられている。
中国科学院遺伝発育生物学研究所:
1959年創設の中国を代表する生命科学研究機関。北京に本部を置き、植物ゲノム科学、分子農業生物学、発生生物学などの分野で世界最先端の研究を行っている。康忠(Kang Chong)研究員らによるCOLD6研究でも知られる。
【参考リンク】
中国科学院遺伝発育生物学研究所(外部)
中国最大の生命科学研究機関の一つ。植物遺伝学、発生生物学、農業技術開発の分野で世界をリードする研究を実施
【編集部後記】
今回のイネ研究は、COLD6やqCTBB9など従来の遺伝子レベルでの寒冷耐性研究とは全く異なるアプローチで、わずか3世代という驚異的な速度での環境適応を実証しました。気候変動で1500万ヘクタールものイネ栽培地が影響を受ける中、このエピジェネティック機構が他の作物にも応用できるとしたら、どのような農業の未来を描けるでしょうか。皆さんはこの技術にどのような可能性と課題を感じられますか?