ノッティンガム大学のAli-Reza Mohammadi-Nejad博士らの研究チームが、COVID-19パンデミックの脳への影響を調査した結果をNature Communications誌に2025年7月22日に発表した。研究では、UKバイオバンクの15,334人の健康な成人データを用いてAIモデルを訓練し、脳の健康な老化を認識させた。その後、996人の参加者を対象に、パンデミック前のみの脳スキャンを受けた564人の対照群と、パンデミック前後両方でスキャンを受けた432人の群で比較分析を実施した。
研究結果によると、パンデミック期間中に人間の脳は対照群と比較して平均5.5ヶ月速く老化していた。この現象は、SARS-CoV-2ウイルスに感染していない人々においても観察された。脳の老化加速は特に男性、高齢者、社会的・経済的に不利な環境にある人々でより顕著であった。ただし、認知機能の低下が見られたのは実際にCOVID-19に感染した人々のみであった。
研究を主導したMohammadi-Nejad博士は、パンデミック体験そのもの、孤立から不確実性まで全てが脳の健康に影響を与えた可能性を指摘している。同研究チームのDorothee Auer教授は、これらの変化が可逆的である可能性があることを示唆している。
From:Human Brains Rapidly Aged in The Pandemic, And It Wasn’t Just The Virus
【編集部解説】
今回のノッティンガム大学の研究は、AIを活用した脳年齢解析という最先端技術により、COVID-19パンデミックが人間の脳に与えた影響を数値化した画期的な成果です。
この研究の技術的な核心は、UKバイオバンクの膨大な脳画像データ(15,334人分)を学習した機械学習モデルが、構造的な脳の特徴から「脳年齢」を予測する能力にあります。従来の研究と異なり、複数のMRI撮像手法を組み合わせた多面的な解析により、より精度の高い脳年齢予測を実現しています。
特に注目すべきは、COVID-19に感染していない人々でも脳の老化が加速していたという発見です。これまでの研究では、SARS-CoV-2ウイルスが直接脳組織に与える損傷が中心的に議論されてきましたが、今回の結果は「パンデミック体験そのもの」が脳に物理的な変化をもたらすことを示しています。
この現象の背景には、パンデミック期間中に世界中で経験された前例のないレベルの心理社会的ストレスがあります。社会的孤立、経済的不安、不確実性、睡眠障害といった要因が複合的に作用し、慢性的なストレス状態を引き起こしました。既存の研究では、こうした慢性ストレスが実際に脳構造を変化させることが知られており、今回の研究はその機序を大規模データで実証したと言えるでしょう。
男性により顕著な影響が見られたという結果も興味深い発見です。これは男性がストレス反応において異なる生理学的パターンを示すことや、パンデミック期間中の社会的サポートの利用方法の違いが関係している可能性があります。
認知機能への影響については、脳の構造的変化と機能的変化が必ずしも一致しないという重要な知見が得られました。脳年齢の加速は観察されたものの、実際の認知パフォーマンスの低下はCOVID-19感染者にのみ見られたのです。これは、脳の可塑性や代償機能の存在を示唆する希望的な結果と言えます。
研究者らが「可逆的である可能性」を指摘している点も重要です。脳の神経可塑性を考慮すれば、適切な介入により構造的変化が回復する可能性があります。実際、運動や社会的つながりの回復、ストレス管理などの介入が脳の健康に与える正の効果は多くの研究で確認されています。
この研究が提示する長期的な視点では、デジタルヘルステクノロジーの発展により、個人レベルでの脳の健康モニタリングが現実的になりつつあります。AIによる脳年齢予測技術の精度向上は、予防医療の新たな可能性を開くものです。
また、この研究は社会経済格差と脳の健康の関連性も明らかにしており、公衆衛生政策における健康格差対策の重要性を科学的に裏付けています。今後のパンデミック対策では、感染症対策だけでなく、心理社会的サポートの充実も同様に重要であることが示されました。
innovaTopiaの読者の皆様にとって、この研究は単なる過去の検証ではありません。現在進行中のテクノロジー革新により、私たちの脳の健康を定量的に把握し、個人レベルで最適化していく時代の到来を告げる研究なのです。
【用語解説】
脳年齢(Brain Age)
MRI画像から推定される脳の年齢で、構造的な特徴を機械学習で分析して算出される。実際の年齢より高い場合は脳の老化が進んでいることを示す。
脳年齢ギャップ(Brain Age Gap)
予測された脳年齢と実際の暦年齢との差。正の値は脳の老化が進んでいること、負の値は脳が若いことを示す指標である。
MRI(磁気共鳴画像)
磁場と電波を用いて体内の詳細な断面画像を撮影する非侵襲的な検査法。脳の構造や機能を詳細に観察できる。
機械学習/AI
大量のデータからパターンを学習し、予測や分類を行うコンピュータ技術。この研究では脳画像から脳年齢を予測するために使用された。
灰白質と白質
灰白質は神経細胞体が密集する脳の領域で、白質は神経線維が束になった領域。両者の変化は脳の老化や病気の指標となる。
NIHR(National Institute for Health and Care Research)
英国の国立健康・ケア研究所。医療・健康分野の研究資金提供を行う政府機関である。
MRC DEMISTIFI programme
英国医学研究会議が実施する認知症と神経変性疾患の研究プログラム。AIや機械学習を活用した診断技術開発を支援している。
【参考リンク】
ノッティンガム大学(外部)
英国の名門研究大学。医学部では先進的な神経画像研究を行っており、今回の研究を主導した機関である。
UKバイオバンク(外部)
英国の大規模健康データベース。50万人の参加者データを研究者に提供し、医学研究の重要なリソースとなっている。
Nature Communications(外部)
ネイチャー・ポートフォリオが発行するオープンアクセスの学際的科学誌。生物学、物理学、化学など幅広い分野の研究を掲載している。
【参考記事】
The Covid-19 pandemic may have aged our brains, according to a new study(外部)
ノッティンガム大学の公式プレスリリース。研究の詳細と研究者のコメントを含む一次情報源として最も信頼性が高い。
People’s brains aged faster during the COVID pandemic – Nature(外部)
Nature誌による専門的な解説記事。研究手法と結果について科学的な視点から詳細に分析している。
COVID-19 Made Our Brains Age Faster | TIME(外部)
TIME誌による一般読者向けの解説記事。研究結果の社会的意義と長期的影響について考察している。
COVID-19 may have aged your brain — even if you didn’t get sick(外部)
Advisory Board社による医療関係者向けの記事。研究結果の医療政策への影響について分析している。
Accelerated brain ageing during the COVID-19 pandemic – Nature Communications(外部)
原著論文。研究の詳細な手法、データ、統計解析結果が掲載された一次資料である。
【編集部後記】
この研究結果を読んで、皆さんはご自身の「脳年齢」について考えたことはありますか?
パンデミックという未曾有の体験が、私たちの脳に物理的な変化をもたらしていたという事実は驚きではないでしょうか。
今後、AIによる脳年齢測定技術がより身近になったとき、皆さんはどのように活用したいと思われますか?また、この研究が示唆する「ストレス環境が脳構造に与える影響」を日常生活でどう受け止め、どんな対策を考えていらっしゃるでしょうか?
innovaTopia編集部も、読者の皆さんと一緒にこれからの脳科学技術の進展を見守っていきたいと思っています。