2025年7月、オランダ・ロッテルダム地方裁判所は、元ASMLおよびNXPの半導体技術者である43歳のロシア国籍のゲルマン・アクセノフに対し、企業秘密の盗取とEU制裁違反により3年の実刑判決を言い渡しました。
アクセノフは2023年5月から2024年8月にかけて、ASML、NXP、ASML子会社のMapper、TSMC、GlobalFoundries、デルフト工科大学から合計193件以上の機密ファイルを盗取し、SignalやTelegram、Google Driveを通じてロシアの情報源に共有していました。これらの情報は28nmプロセス技術による半導体製造ライン構築を支援する目的で使用されたとされています。
検察は当初4年の刑を求刑していましたが、金銭授受の証拠不十分により1年減刑されました。アクセノフは2023年8月28日に逮捕され、それ以降拘留されています。NXPは検察に協力したと表明し、ASMLは進行中の訴訟を理由にコメントを控えています。
From: Ex-ASML engineer who stole chip tech for Russia gets three years in Dutch prison
【編集部解説】
今回のゲルマン・アクセノフ事件は、半導体業界における産業スパイ活動の新たな手法と、現代のテクノロジー地政学の複雑さを浮き彫りにした重要な事案です。単なる企業秘密の漏洩を超えて、国際安全保障に直結する技術流出の実態を明らかにしています。
事件の技術的重要性
アクセノフが標的としたのは、世界の半導体サプライチェーンの中核を担う企業群でした。ASMLの極紫外線リソグラフィ技術、TSMCの製造プロセス、NXPの専門技術、さらにはデルフト工科大学の研究成果まで、幅広い技術領域から193件以上の機密文書を組織的に収集していました。
特に注目すべきは、これらの情報が28nmプロセス技術による製造ライン構築を目的としていた点です。28nmは最先端ではありませんが、軍事用途には十分な性能を持ち、ロシアの半導体自給率向上に直結する戦略的価値があります。
デジタル時代の産業スパイ手法
従来の産業スパイは物理的な文書や試作品の窃取が中心でしたが、本事件ではSignal、Telegram、Google Driveといった一般的なデジタルツールが使用されました。これらのプラットフォームは暗号化機能を持つため、従来の監視体制では検知が困難です。
アクセノフはUSBスティックを使用してモスクワで直接情報を手渡すという古典的手法と、クラウドストレージを活用した現代的手法を巧妙に組み合わせていました。この手法は今後の企業セキュリティ対策に重要な示唆を与えています。
地政学的影響の拡大
この事件は2014年のEU対ロシア制裁の実効性を問う重要な判例となりました。制裁は「技術支援の提供」を禁止していますが、デジタル情報の流出をどこまで規制できるかという新たな課題が浮上しています。
オランダという中立的立場を保ってきた国でさえ、技術流出防止のために厳格な措置を取らざるを得なくなったことは、欧州全体の安全保障政策に影響を与える可能性があります。
半導体業界への長期的影響
本事件により、半導体業界全体のセキュリティ意識が根本的に変化することが予想されます。企業は従業員の身元調査、アクセス権限管理、退職後の情報管理などを大幅に強化する必要に迫られるでしょう。
一方で、過度なセキュリティ強化は国際的な人材交流や技術革新を阻害するリスクもあります。半導体産業は本来、グローバルな知識共有によって発展してきた分野であり、セキュリティと革新のバランスが重要な課題となります。
組織的スパイ活動の可能性
検察は「アクセノフ単独では完全な半導体設計を盗むことは不可能だが、組織的な取り組みにより可能になる」と指摘しています。この発言は、より大規模で組織化された技術流出ネットワークの存在を示唆しており、今後の捜査展開が注目されます。
日本企業への示唆
日本の半導体関連企業にとって、この事件は重要な警鐘となります。特に、外国人技術者の雇用が一般的な現在、従業員管理や情報セキュリティの見直しが急務となっています。
同時に、技術覇権をめぐる国際競争が激化する中、日本企業も標的となる可能性が高く、官民一体となった対策強化が求められています。
この事件は、テクノロジーが国家安全保障の中核となった現代において、企業、国家、そして国際社会全体が直面する新たな挑戦を象徴する出来事といえるでしょう。
【用語解説】
28nmプロセス技術
半導体製造において、トランジスタ間の最小配線幅が28ナノメートルの製造技術。最先端ではないが、軍事用途や産業用途には十分な性能を持つ。
EUV(極紫外線)リソグラフィ
半導体製造において、13.5ナノメートルの極めて短い波長の光を使用して、シリコンウェハー上に微細な回路パターンを形成する技術。7nm以下の最先端チップ製造に不可欠である。
Mapper Lithography
オランダの半導体露光装置メーカー。2019年にASMLが買収した。電子ビームリソグラフィ技術を専門としていた。
FSB(ロシア連邦保安庁)
ロシアの主要な治安機関で、旧KGBの後継組織。国内治安、防諜、国境警備、テロ対策などを担当し、約20万〜30万人の職員を擁する。
EU制裁
2014年のクリミア併合以降、EUがロシアに対して科している経済制裁。技術移転や軍事転用可能技術の提供を禁止している。
【参考リンク】
ASML公式サイト(外部)
世界唯一のEUVリソグラフィ装置メーカー。最先端チップ製造に不可欠な技術を提供している。
NXP Semiconductors公式サイト(外部)
オランダの半導体メーカーで、自動車、産業IoT、モバイル向けソリューションを提供。
TSMC公式サイト(外部)
世界最大の半導体ファウンドリ企業。AppleやNVIDIAなど主要テック企業のチップを製造。
GlobalFoundries公式サイト(外部)
アメリカの半導体ファウンドリ企業。自動車、IoT、通信インフラ向けの特殊プロセス技術に特化。
デルフト工科大学公式サイト(外部)
オランダの名門工科大学。半導体技術、マイクロエレクトロニクス分野で世界的に著名な研究機関。
【参考動画】
【参考記事】
Former ASML employee gets jail sentence for leaking tech files to Russian contact(外部)
ロッテルダム地方裁判所での判決の詳細と、アクセノフの供述内容を詳しく報じた記事。
Russian spy infiltrates ASML and NXP to steal technical data necessary to build 28nm-capable fabs(外部)
アクセノフが盗取した文書の詳細と28nm製造ライン構築目的について詳述した記事。
What Is EUV, and How Does It Work?(外部)
EUVリソグラフィ技術の仕組みと重要性について詳細に解説した記事。
【編集部後記】
今回のASML事件を通じて、私たちが日常的に使用しているデジタルツールが、いかに産業スパイ活動に悪用される可能性があるかが明らかになりました。SignalやTelegramといった身近なアプリが、国際的な技術流出の手段として使われていたのです。半導体業界で働く皆さんにとって、この事件は決して他人事ではないでしょう。企業の機密情報管理や、国際的な人材交流における新たなリスクについて、どのような対策が必要だと感じていらっしゃいますか。また、技術革新と安全保障のバランスをどう取るべきか、皆さんの現場での体験や考えをぜひお聞かせください。