京都府立医科大学の阿形亜子博士と野村正博士らの研究チームは、CRISPR技術を用いて4万年前のネアンデルタール人とデニソワ人に存在したGLI3遺伝子の変異型R1537Cを実験用マウスに導入した。
この変異は胚発生時の骨や臓器の発達に影響を与え、マウスは広い頭蓋骨や脊柱側弯症様の脊椎湾曲、肋骨の異常などネアンデルタール人の骨格特徴を示した。R1537C変異は現代の非アフリカ系集団に存在し、1000ゲノムプロジェクトのデータによるとヨーロッパ人集団の3.7%から7.7%、アフリカ人集団の0.8%から2.1%に存在する。
この研究は2023年11月に京都府立医科大学から発表され、BioRxiv誌に掲載された。古代の遺伝子変異が現代人の遺伝的背景と相互作用し、種特異的な骨格特徴の形成に寄与していることを示唆している。改変マウスは多指症などの重篤な奇形は示さず、変異は発達過程の調節に微妙な影響を与えていると考えられる。
From: Scientists Injected 40,000-Year-Old Human DNA into Mice: What Emerged Has Left Everyone Speechless
【編集部解説】
この研究は、古代DNA研究と現代のゲノム編集技術が融合した画期的な成果として注目されています。京都府立医科大学の研究チームが2023年に発表した実験は、単なる学術的興味を超えて、人類進化の理解に新たな地平を開く可能性を秘めています。
GLI3遺伝子の役割と重要性
GLI3遺伝子は、胚発生時の骨格形成を制御する「ヘッジホッグシグナル伝達経路」の中核を担う転写因子です。この遺伝子は、骨や臓器の発達パターンを決定する「設計図」のような役割を果たしており、その変異は通常、重篤な先天性疾患を引き起こします。
しかし、今回発見されたR1537C変異は興味深い特徴を持っています。京都府立医科大学の公式発表によると、この変異は「タンパク質が本来持つ機能を保ちつつ、さまざまな遺伝子の活性を変化させる」作用を示しました。
現代人への遺伝的影響の実態
この研究で特に注目すべきは、R1537C変異が現代人にも受け継がれている事実です。1000ゲノムプロジェクトのデータによると、ヨーロッパ系集団の3.7%から7.7%がこの変異を保有しており、これは決して無視できない割合といえます。
現代人のゲノムには、ネアンデルタール人由来のDNAが1-4%含まれていることが知られていますが、その多くは免疫系や代謝系に関連する遺伝子に集中しています。今回の発見は、骨格形成という基本的な身体構造にも古代人類の遺伝的影響が及んでいることを示唆しています。
技術的革新がもたらす可能性
CRISPR技術の精密化により、単一のアミノ酸置換という極めて微細な遺伝的変化の影響を詳細に解析できるようになりました。この技術的進歩は、人類進化の謎を分子レベルで解明する新たな手法を提供しています。
将来的には、この手法を応用して他の古代人類特有の遺伝的変異の機能解析が可能になるでしょう。デニソワ人やその他の古代人類集団が持っていた遺伝的特徴の理解が深まれば、人類の多様性の起源をより詳細に解明できる可能性があります。
医学的応用への展望
この研究成果は、骨格系疾患の理解と治療法開発にも貢献する可能性を秘めています。GLI3遺伝子の変異は、グレイグ頭蓋多合指症候群などの先天性疾患の原因となることが知られており、今回の発見は病態メカニズムの解明に新たな視点を提供します。
また、現代人に残存するネアンデルタール由来の遺伝的変異が、特定の疾患リスクや身体的特徴にどのような影響を与えているかの理解も深まるでしょう。
倫理的課題と規制への影響
一方で、古代DNAを現代生物に導入する研究には慎重な検討が必要です。今回の実験は基礎研究の範囲内ですが、将来的にヒト胚への応用が検討される可能性もあり、生命倫理の観点から厳格な規制枠組みの整備が求められます。
特に、古代人類の遺伝的特徴を現代人に「復活」させることの是非については、科学界だけでなく社会全体での議論が必要になるでしょう。
長期的な科学的意義
この研究は、人類進化の理解を根本的に変える可能性を持っています。従来の化石研究では推測に留まっていた古代人類の生物学的特徴を、分子レベルで実証的に検証できる時代が到来したのです。
今後、より多くの古代人類由来の遺伝的変異が解析されることで、現代人の多様性の起源や、環境適応における古代人類の遺伝的貢献がより明確になるでしょう。これは、「Tech for Human Evolution」というinnovaTopiaのコンセプトそのものを体現する研究領域といえます。
【用語解説】
GLI3遺伝子
胚発生時の骨格形成を制御する転写因子をコードする遺伝子。ヘッジホッグシグナル伝達経路の中核を担い、骨や臓器の発達パターンを決定する「設計図」のような役割を果たす。変異により先天性疾患を引き起こすことが知られている。
R1537C変異
GLI3遺伝子の1537番目のアミノ酸がアルギニン(R)からシステイン(C)に置換された変異。ネアンデルタール人とデニソワ人に存在し、現代人の一部にも受け継がれている。タンパク質の本来機能を保ちつつ遺伝子活性を変化させる。
ヘッジホッグシグナル伝達経路
胚発生時に細胞の運命決定や組織形成を制御する重要な分子機構。骨格、神経系、臓器の発達に必須の役割を果たす。GLI3はこの経路の下流で転写因子として機能する。
ネアンデルタール人
約40万年前から4万年前まで存在した古代人類。現代人と共通祖先を持ち、ヨーロッパや西アジアに居住していた。現代人のゲノムに1-4%のDNAが残存している。
デニソワ人
約40万年前から4万年前まで存在した古代人類。シベリアのデニソワ洞窟で発見された。ネアンデルタール人と同様に現代人と交雑し、特にアジア・オセアニア系集団にDNAが残存している。
BioRxiv
生物学分野のプレプリントサーバー。査読前の研究論文を公開し、科学コミュニティでの早期共有と議論を促進するプラットフォーム。正式な学術誌への投稿前の段階で研究成果を発表できる。
【参考リンク】
京都府立医科大学(外部)
京都府が設置する公立医科大学。今回の研究を行った阿形亜子博士と野村正博士が所属する発生神経生物学教室がある。
Thermo Fisher Scientific – CRISPR Technology(外部)
CRISPR-Cas9技術に関する包括的な情報を提供するサイト。遺伝子編集技術の基礎から応用まで網羅。
【参考記事】
京都府立医科大学公式プレスリリース(外部)
2023年11月1日に発表された本研究の公式発表。GLI3遺伝子のR1537C変異が細胞や個体の形質に与える影響を詳細報告。
A Neanderthal/Denisovan GLI3 variant contributes to anatomical variations in mice(外部)
京都府立医科大学の研究チームによる原著論文のプレプリント版。ネアンデルタール/デニソワ人由来のGLI3変異の詳細解析。
Neanderthals’ Genetic Legacy(外部)
ハーバード医科大学による研究報告。現代人に残存するネアンデルタールDNAが疾患リスクや身体的特徴に与える影響を包括分析。
The Contribution of Neanderthals to Phenotypic Variation in Modern Humans(外部)
ネアンデルタール由来の遺伝的変異が現代人の表現型多様性に与える影響を詳細分析した学術論文。28,000人の大規模研究。
Neanderthal ancestry through time(外部)
過去5万年間にわたる300以上のゲノムを分析し、ネアンデルタール由来のDNAが現代人に受け継がれた過程を時系列で解明。
1000 Genomes Project (NHGRI)(外部)
米国国立ヒトゲノム研究所による1000ゲノムプロジェクトの公式報告。2,504人のゲノム配列解析による人類の遺伝的多様性カタログ。
【編集部後記】
4万年前の古代人類のDNAが現代の私たちにも受け継がれているという事実に、皆さんはどのような感想を持たれましたか?もしかすると、あなた自身もネアンデルタール人由来の遺伝的特徴を持っているかもしれません。この研究は2023年に発表されましたが、CRISPR技術の進歩により、これまで推測でしかなかった人類進化の謎が分子レベルで解明されつつあります。古代と現代を結ぶ遺伝的な橋渡しが、私たちの身体的特徴や健康にどのような影響を与えているのでしょうか。皆さんは、自分のゲノムに眠る古代人類の痕跡を知りたいと思われますか?そして、この技術が将来的にどのような医療応用や人類理解の深化をもたらすと考えられますか?ぜひSNSで皆さんの考えをお聞かせください。