英国会計検査院(NAO)が2025年11月4日に公表した報告書によると、イングランドとウェールズの警察組織は年間20億ポンド(26億ドル)のテクノロジー予算のうち97%をレガシーシステムの維持に費やしている。財務省は2024-25年度に4年間で2億3400万ポンドを提供し、ライブ顔認証、ドローン、市民対応の自動化、AIなどのテクノロジー展開を支援したが、2025-26年度からこの資金提供を打ち切った。内務省はライブ顔認証への資金配分を停止し、ナイフ検知技術への資金も削減した。全国警察本部長協議会(NPCC)は、デジタル人材の採用と保持の課題、レガシーシステムの維持が新技術への投資を制限していること、データ品質の低さを指摘した。全国警察データベース(PND)はクラウド移行を予定していたが、レガシーのOracleプラットフォームからの移行に苦戦し、政府のプロジェクト監視機関によって「レッド」リスクと評価され、調達は1年以上遅延している。
From:
Keeping the lights on takes up nearly all police IT spending in England and Wales
【編集部解説】
今回の報告書が浮き彫りにしたのは、公共機関のデジタル変革における構造的な問題です。予算の97%がレガシーシステムの維持に消えるという状況は、新技術への投資余力がほぼゼロであることを意味します。
この問題は警察組織に限ったものではありません。英国の国家犯罪対策庁(NCA)では260のレガシーシステムを抱え、IT予算の80%が旧システムの維持に使われています。中央政府のITシステムも28%がレガシー技術に分類され、2023年の26%から増加傾向にあります。
特に深刻なのは「技術的負債」の概念です。これは短期的な応急処置を繰り返した結果、長期的には遥かに高いコストを払うことになる状態を指します。全国警察データベース(PND)のOracle移行が1年以上遅延し「レッド」リスク評価を受けた事例は、この負債が実務にどう影響するかを示しています。
資金調達モデルの問題も看過できません。財務省が4年間で2億3400万ポンドを提供しながら、翌年度には打ち切るという方針は、長期的な計画立案を困難にします。内務省が複数の資金提供経路を設けたことで、各警察組織は投資判断がさらに複雑化しました。
全国警察本部長協議会が指摘する「単一の警察としての声の欠如」は、組織構造の課題を表しています。イングランドとウェールズには43の警察組織が存在し、それぞれが独自にシステムを運用しているため、情報共有や技術標準の統一が進みません。
AIやライブ顔認証といった先端技術への投資が停止された影響は、将来的な犯罪対策能力の低下につながる可能性があります。デジタル人材の採用と保持の課題、データ品質の低さ、変革管理への不十分なサポートなどが重なり、警察のデジタル変革は多面的な困難に直面しています。
【用語解説】
レガシーシステム:古い技術や設計思想で構築された既存のITシステムを指す。時代遅れとなった技術基盤やプログラミング言語で作られており、維持管理にコストがかかる一方、新技術への対応が困難である。多くの公共機関や企業で業務の中核を担っているため、簡単に廃止できないという問題を抱えている。
技術的負債:短期的な応急処置や不完全な設計判断によって、将来的に多大な修正コストや保守費用が発生する状態を指す概念。急いでリリースした結果、テストやドキュメント作成を省略したり、最適ではない技術選択をしたりすることで蓄積される。放置すると、システムの変更がリスクが高く時間のかかる作業となり、イノベーションの障害となる。
Oracleデータベース・ミドルウェア:Oracle社が提供するデータベース管理システムと、アプリケーションとデータベースの間で動作するソフトウェア群。ミドルウェアには、アプリケーションサーバー、ビジネスプロセス管理、サービス指向アーキテクチャなどが含まれる。多くの企業や公共機関で長年使用されてきたが、クラウドネイティブな技術への移行が課題となっている。
ライブ顔認証:リアルタイムで映像を分析し、警察のデータベースに登録された容疑者や指名手配犯と照合する技術。街頭や公共イベント会場に設置されたカメラで人々の顔を撮影し、アルゴリズムで照合を行う。英国では既にロンドン警視庁やサウスウェールズ警察が導入しており、性犯罪、暴行、ナイフ犯罪などの容疑者逮捕に活用されている。
NAO(会計検査院):英国議会の独立した公的支出監視機関。中央政府省庁、政府機関、非省庁公共機関の監査を担当し、公金の使い方を精査する。また、行政政策の費用対効果監査も実施し、報告書は議会の公会計委員会によって審査される。ロンドンとニューカッスルに拠点を持ち、約800人のスタッフを擁する。
【参考リンク】
National Audit Office(英国会計検査院)(外部)
英国の独立した公的支出監視機関の公式サイト。政府の支出を監査し、議会が政府に説明責任を果たさせる支援を行う。今回の警察の生産性に関する報告書を含む、数多くの監査報告書や調査結果を公開している。
Police National Database – GOV.UK(外部)
全国警察データベース(PND)の変革プログラムに関する政府の公式情報。2011年以来、すべての警察組織、非警察法執行機関、規制機関間で情報を共有する唯一の情報データベースとして機能している。
Oracle Fusion Middleware(外部)
Oracle社が提供するミドルウェア製品群の公式サイト。アプリケーション開発、デプロイメント、サービス指向アーキテクチャの管理などを行うソフトウェアで、多くの公共機関や企業のシステム基盤として使用されている。
【参考記事】
Police productivity – NAO report(外部)
英国会計検査院が2025年11月3日に公表した警察の生産性に関する公式報告書。イングランドとウェールズの警察組織が年間20億ポンドのIT予算の97%をレガシーシステムの維持に費やしていることを指摘し、新技術導入の遅れや資金調達モデルの問題点を詳細に分析している。
Legacy tech blunts UK top cops’ fight against serious crime – The Register(外部)
英国国家犯罪対策庁(NCA)が260のレガシーシステムを抱え、IT予算の80%を旧システムの維持に使っている実態を報じる記事。警察組織だけでなく、英国の法執行機関全体がレガシーシステムの問題を抱えていることを示している。
Overcoming barriers to digital transformation in the police force – CACI(外部)
2025年9月に公開された、警察組織のデジタル変革における障壁に関する詳細な分析記事。43の独立した警察組織が存在する英国の構造的問題、デジタル人材の不足、データ品質の課題などを包括的に解説している。
Live Facial Recognition technology to catch high-harm offenders – GOV.UK(外部)
2025年8月12日に発表された、英国政府のライブ顔認証技術の展開に関する公式発表。10台の新しいLFRバンを7つの警察組織に配備する計画と、ロンドン警視庁が12ヶ月で580件の逮捕を行った実績を報告している。
【編集部後記】
今回の英国警察の事例は、私たちの社会が直面している「古いシステムの呪縛」を象徴的に表しているように感じます。IT予算の97%が既存システムの維持に消えるという状況は、決して英国だけの問題ではありません。日本の公共機関や企業でも、同じような課題を抱えているケースは少なくないはずです。みなさんの身近な組織でも、「新しいことをしたいけれど、既存システムの維持で精一杯」という声を耳にしたことはありませんか?技術的負債という見えないコストが、どれだけイノベーションを阻んでいるのか。この記事を読んで、ご自身の環境について考えるきっかけにしていただけたら幸いです。

