IHIは、CO2と水素を原料とした持続可能な航空燃料(SAF)を試験装置規模で合成することに成功した。合成したSAFは米国ワシントン州立大学において評価を受け、航空機用代替ジェット燃料として良好な特性を有することが確認された。IHIは2022年よりシンガポール科学技術研究庁傘下の研究機関ISCE²と共同で、CO2と水素からSAFの原料である液体炭化水素を直接合成する触媒の開発を開始し、ラボ試験で世界トップレベルの性能を確認している。
2025年9月からはISCE2内に設置した試験装置を用いて液体炭化水素の合成試験を実施した。同大学バイオプロダクト科学・工学研究所のジョシュア・ヘイン所長は、IHIの燃料サンプルが初期段階のSAF候補に求められる試験特性をすべて満たしたと評価した。今回の成功はASTM認証取得への重要な一歩となった。国際民間航空機関(ICAO)は2050年までに航空機のCO2排出を実質ゼロにする長期目標を掲げている。
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CO₂を原料とした持続可能な航空燃料(SAF)の試験装置による合成に成功~国際規格を満たす優れた特性を専門機関で確認~
【編集部解説】
IHIの今回の成功は、航空業界の脱炭素化における重要な技術的マイルストーンです。この発表の意義を理解するために、まず持続可能な航空燃料(SAF)が直面している課題から見ていきましょう。
国際民間航空機関(ICAO)が2050年のカーボンニュートラル目標を掲げる中、航空業界は深刻なジレンマに直面しています。米国では2023年に約2450万ガロンのSAFが消費されましたが、2050年の目標達成には年間約1200億ガロンが必要と推計されています。現在の生産量は必要量のわずか0.02%程度にすぎません。
現在主流のSAF生産方式は、廃食用油やバイオマスを原料とするHEFA方式やフィッシャー・トロプシュ(FT)方式ですが、原料調達の制約により大規模展開には限界があります。そこで期待されているのが、CO2と水素を原料とするPower-to-Liquid(PtL)方式です。この方式は理論上、原料を無限に確保できる可能性を持ちます。
IHIが開発している技術の革新性は、CO2と水素を「直接」液体炭化水素に変換できる点にあります。従来のFT方式では、まずCO2を逆水性ガスシフト反応でシンガス(COとH2の混合ガス)に変換し、次にFT合成で炭化水素にするという2段階のプロセスが必要でした。IHIの触媒技術は、この中間工程を省略し、CO2と水素から直接炭化水素を合成します。工程の簡略化は、エネルギー効率の向上とコスト削減につながる可能性があります。
今回の試験で合成されたSAFが米国ワシントン州立大学で高評価を得た点も重要です。同大学は米国連邦航空局(FAA)の支援を受け、新規航空燃料のASTM認証取得前のプリスクリーニングを担う世界的権威です。特に低温流動特性が優れていたという評価は、高度1万メートルを飛行する航空機にとって極めて重要な性能指標です。
ただし、商用化への道のりはまだ長いことも認識しておく必要があります。ASTM D7566認証の取得には、Tier 1からTier 4までの段階的な試験が必要で、航空機メーカーによる数か月から数年にわたる大規模な適合性試験も含まれます。IHIの燃料は現時点で初期段階のプリスクリーニングを通過した段階であり、完全な認証取得にはさらに数年を要すると見られます。
最大の課題はコストです。PtL方式のSAFは、現在の試算では従来のジェット燃料の数倍から10倍程度のコストがかかるとされています。これは主に、グリーン水素の製造コストとCO2の回収コストに起因します。IHI自身も、安価な水素とCO2の調達が最大の課題であると認識しています。
それでも、この技術が持つ潜在的な意義は大きいといえます。再生可能エネルギーによる水素製造コストが低下し、直接空気回収(DAC)技術が成熟すれば、PtL方式のSAFは実質的にカーボンネガティブな燃料となり得ます。燃焼時に排出されるCO2は、製造時に大気から回収したCO2そのものだからです。
IHIは2022年から開発を開始し、わずか3年で試験装置レベルでの合成に成功しました。シンガポールに設置された試験装置は「世界最大級のベンチスケール試験装置」と報じられており、同社の本気度が伝わってきます。2040年頃にはPtL方式がSAF市場の主流になるという予測もあり、IHIの技術開発は時機を得たものといえるでしょう。
航空業界の脱炭素化は、人類が直面する技術的挑戦の中でも特に困難なもののひとつです。電動化が難しい長距離航空において、SAFは現実的な解決策として期待されています。IHIのような日本企業が、この分野で世界をリードする技術を開発していることは、日本の技術力を世界に示す好機となるかもしれません。
【用語解説】
SAF(Sustainable Aviation Fuel / 持続可能な航空燃料)
従来の石油由来ジェット燃料に代わる、再生可能な原料から製造される航空燃料。廃食用油、バイオマス、CO2と水素などから生成され、ライフサイクル全体で最大94%の温室効果ガス削減が可能とされる。既存の航空機や燃料インフラをそのまま使用できる「ドロップイン燃料」として設計されている。
Power-to-Liquid(PtL / パワー・トゥ・リキッド)
再生可能エネルギー由来の電力を使用して、水素とCO2から液体燃料を合成する技術。電力を液体燃料という形で長期保存・輸送可能なエネルギーに変換できる点が特徴。2040年以降、SAF市場の主流になると予測されている。
液体炭化水素
炭素と水素から構成される液体状の化合物。ガソリン、灯油、軽油などの燃料の主成分であり、SAFの原料となる。IHIはCO2と水素から直接この液体炭化水素を合成する触媒技術を開発している。
触媒
化学反応を促進する物質。自身は反応の前後で変化しない。IHIの開発した触媒は、CO2と水素を液体炭化水素に直接変換する世界トップレベルの性能を持つとされる。
ASTM D7566認証
ASTM International(米国試験材料協会)が定める、合成炭化水素を含む航空タービン燃料の国際規格。新しいSAF製造方式がこの認証を取得することで、世界中の航空機での使用が可能になる。認証取得には数年におよぶ段階的な試験が必要。
フィッシャー・トロプシュ(FT)方式
一酸化炭素と水素の混合ガス(シンガス)から液体炭化水素を合成する化学プロセス。1920年代にドイツで開発された。現在のSAF製造の主要技術のひとつだが、CO2を直接利用できないため逆水性ガスシフト反応でシンガスに変換する工程が必要。
HEFA方式(Hydroprocessed Esters and Fatty Acids)
植物油や廃食用油などの脂質を水素処理してSAFを製造する方式。現在商業化されているSAF製造技術の中で最も成熟しており、2030年時点でSAF生産量の約66%を占めると予測されている。ただし原料となる油脂の調達量に限界がある。
逆水性ガスシフト反応
CO2と水素を反応させて一酸化炭素と水を生成する化学反応。従来のFT方式でCO2を原料として使用する際に必要な前処理工程。IHIの直接合成法はこの工程を省略できる点が革新的。
グリーン水素
再生可能エネルギー由来の電力を使用した水の電気分解によって製造される水素。製造過程でCO2を排出しないため、気候変動対策の鍵となる技術とされるが、現時点では製造コストが高い。
DAC(Direct Air Capture / 直接空気回収)
大気中から直接CO2を回収する技術。濃度の低い大気中のCO2を効率的に捕捉するため、エネルギーコストが高いことが課題。PtL方式のSAFと組み合わせることで、実質的にカーボンネガティブな燃料製造が可能になる。
カーボンニュートラル / カーボンネガティブ
カーボンニュートラルは、CO2の排出量と吸収量が均衡している状態。カーボンネガティブは、吸収量が排出量を上回り、大気中のCO2を実質的に減少させる状態。PtL方式のSAFは、DACで回収したCO2を使用することでカーボンニュートラル以上の効果が期待できる。
ベンチスケール
実験室規模(ラボスケール)より大きく、商業規模(フルスケール)より小さい試験装置の規模。技術の実用可能性を検証する中間段階として重要。IHIがシンガポールに設置した装置は世界最大級のベンチスケール試験装置とされる。
【参考リンク】
株式会社IHI(外部)
日本の総合重工業メーカー。航空宇宙、エネルギー、社会基盤など幅広い分野で事業展開。1853年創業。
IHI SAFプロジェクト紹介ページ(英語)(外部)
IHIのSAF開発プロジェクトの詳細。CO2を使ってCO2を減らす技術コンセプトを紹介。
シンガポール科学技術研究庁(A*STAR)(外部)
シンガポール政府傘下の研究機関。バイオメディカル、物理・工学など幅広い分野で研究開発を推進。
ISCE²(Institute of Sustainability for Chemicals, Energy and Environment)(外部)
A*STAR傘下の研究所。低炭素技術、持続可能な材料など最新のデジタル化ツールを活用した研究開発。
国際民間航空機関(ICAO)(外部)
国連の専門機関。2050年までに航空機のCO2排出を実質ゼロにする長期目標を掲げる。
ASTM International(外部)
国際的な標準化団体。航空燃料の品質規格ASTM D1655とD7566を定め、航空業界の安全性を担保。
【参考動画】
IHI公式チャンネルによるSAF開発プロジェクトの紹介動画。CO2と水素から持続可能な航空燃料を製造する技術についてわかりやすく解説。
【参考記事】
Advancing aviation sustainability by 2050: Scaling renewable energy systems(外部)
2050年の航空燃料需要は1824億ガロンと予測。e-fuel100%で96%のCO2削減が可能。
Alternative Fuels Data Center: Sustainable Aviation Fuel(外部)
米国のSAF消費量は2023年に2450万ガロン。100%SAFで最大94%の温室効果ガス削減可能。
IHI and ASTAR Unveil Groundbreaking Sustainable Aviation Fuel Production Process(外部)
2025年1月、IHIとA*STARがシンガポールで世界最大級のベンチスケールSAF試験装置を公開。
Power-to-liquid via synthesis of methanol, DME or Fischer–Tropsch-fuels: a review(外部)
メタノールの直接CO2水素化は副生成物が少ない。FT合成では直接CO2利用の触媒は初期段階。
Sustainable Aviation Fuel (SAF): Production Pathways(外部)
2030年のSAF生産はHEFA方式66%、AtJ方式23%で合計89%と予測。ASTM認証は11種類。
SAF Handbook – IATA(外部)
ASTM認証取得には航空機メーカーが数か月にわたり数十万ガロンのSAFで試験を実施。
【編集部後記】
次に飛行機に乗る機会があったら、その燃料のことを少し考えてみませんか。私たちが何気なく利用している空の旅が、実は気候変動対策における最も困難な課題のひとつに直面しています。IHIのような企業が地道に積み重ねる技術開発の先に、どんな未来の空があるのでしょうか。2050年のカーボンニュートラル達成まで、あと25年ほど。この挑戦がどう展開していくのか、innovaTopia編集部も皆さんと一緒に見守っていきたいと思います。航空業界の脱炭素化について、皆さんはどのような未来を思い描きますか。
