2026年2月24日、株式会社東芝とMIRISE Technologies株式会社は、東芝独自の量子インスパイアード最適化コンピュータであるSimulated Bifurcation Machine(SBM)を、MIRISEが開発した自律移動ロボットに搭載し、リアルタイムの自律走行を実証したと発表した。
量子インスパイアード最適化コンピュータを移動プラットフォームに直接組み込み、自律制御に適用した事例は世界初である。東芝はSBM上で多物体追跡アルゴリズムを開発し、組み込み用FPGAに実装した。多物体追跡処理は毎秒23フレームで動作し、自動運転に通常求められる10FPSを上回る。標準ベンチマークに対して追跡精度が4%、遮蔽評価用ベンチマークに対して23%向上した。成果はNature Communicationsおよび他2誌の学術誌に掲載された。
【編集部解説】
今回の発表で最も注目すべきポイントは、「量子インスパイアード」技術が研究室やクラウドから飛び出し、実際に動く小型ロボットの「頭脳」として機能したという事実です。
まず「量子インスパイアード」という言葉を整理しておきます。これは量子コンピュータそのものではありません。極低温環境や特殊な量子ハードウェアを必要とする量子コンピュータとは異なり、量子力学の原理から着想を得たアルゴリズムを、FPGAやGPUといった既存の半導体チップ上で動かす技術です。「量子の考え方を、今ある技術で使えるようにした」と理解するのがわかりやすいでしょう。
東芝のSimulated Bifurcation Machine(SBM)は、この量子インスパイアード技術の代表的な実装の一つです。東芝は2019年にSBMのPoC版をAWS Marketplaceで公開し、2020年にはMicrosoft Azure Quantumに参加、その後SQBM+として商用クラウドサービスへと展開してきました。2021年にはFPGAをデスクトップ型ワークステーションに搭載したオンプレミス版も発表しています。つまりSBM自体は新しい技術ではなく、今回の成果はその「適用先」と「実装形態」にブレークスルーがあります。
従来、こうした最適化コンピュータはサーバー上で動作し、ロボットや車両の群を遠隔から集中制御する用途が主でした。今回、東芝とMIRISEはこれを移動体の内部に直接搭載し、外部サーバーに依存しないオンボードでの自律制御を実現しています。ネットワーク遅延の排除、通信途絶時の自律性確保という点で、実用上の意味は大きいと考えられます。
技術的に興味深いのは、多物体追跡(MOT)の問題を組合せ最適化として再定式化した点です。従来手法では物体同士が重なったり遮蔽が発生すると追跡が途切れやすく、自動運転の安全性を脅かす要因の一つでした。新アルゴリズムは従来の1対1マッチングに加え、SBMの並列探索能力を活用した1対多マッチングを導入し、遮蔽後の再追跡を可能にしています。
共同開発パートナーであるMIRISE Technologiesの背景にも注目が必要です。同社はデンソーが51%、トヨタ自動車が49%を出資して2020年4月に設立された合弁会社であり、次世代車載半導体の研究開発を主な事業としています。つまり今回の成果は、東芝の最適化アルゴリズム技術と、日本の自動車産業の中核を担うトヨタ・デンソー陣営の車載技術が合流した取り組みといえます。
想定されるユースケースは幅広く、物流倉庫の搬送ロボット、建設・農業分野の自律機械、スマートシティのインフラ監視、さらにはエネルギー管理システムにまで及びます。とりわけ日本が直面する深刻な労働力不足を背景に、こうした自律システムの需要は今後さらに高まることが確実視されています。
一方で、留意すべき点もあります。今回の実証はあくまで研究段階のプロトタイプであり、商用展開に向けては量産コスト、長期信頼性、悪天候や夜間といった過酷な実環境での性能検証など、多くのステップが残されています。また、自律移動体のオンボード意思決定が高度化するほど、判断の透明性や安全認証をどう担保するかという規制面の議論も重要になってきます。
それでも、量子コンピュータの本格普及を待たずに、その計算原理を実世界のエッジデバイスに持ち込めるという実証は、ロボティクスと自動運転の進化において意義ある一歩といえるのではないでしょうか。
【用語解説】
量子インスパイアード最適化コンピュータ
量子コンピュータの計算原理から着想を得たアルゴリズムを、FPGAやGPUなどの既存の半導体ハードウェア上で実行する技術。極低温環境や専用の量子ハードウェアを必要としない点で量子コンピュータとは異なる。
Simulated Bifurcation Machine(SBM)
東芝が開発した量子インスパイアード最適化コンピュータ。分岐現象と呼ばれる古典力学の原理を応用し、組合せ最適化問題を高速に解く。クラウド版(SQBM+)とオンプレミス版が存在する。
組合せ最適化問題
膨大な選択肢の中から最適な組合せを見つけ出す問題の総称。候補の数は問題の規模に応じて指数関数的に増大するため、従来のコンピュータでは高速に解くことが困難である。物流の配送経路、金融取引のポートフォリオ最適化、創薬における分子設計などが代表例。
FPGA(Field-Programmable Gate Array)
製造後にユーザーが回路構成をプログラムできる半導体チップ。用途に応じて柔軟に機能を書き換えられるため、組み込みシステムやプロトタイプ開発に広く用いられる。
多物体追跡(MOT:Multi-Object Tracking)
カメラ映像などから複数の物体を同時に検出し、時系列で個々の動きを追跡する技術。自動運転やロボットナビゲーションにおいて、歩行者や他の車両を識別し続ける基盤技術である。
HOTA(Higher Order Tracking Accuracy)
多物体追跡の精度を評価する指標の一つ。検出精度と追跡の一貫性を統合的に測定する。従来広く使われてきたMOTA(Multiple Object Tracking Accuracy)よりも、追跡の質を多面的に評価できるとされる。
エッジデバイス
クラウドや遠隔サーバーではなく、現場の機器上で直接データを処理する小型・低消費電力の組み込み機器のこと。低遅延が求められる自律制御システムにおいて重要性が高まっている。
【参考リンク】
東芝 研究開発センター(本研究の公式発表ページ)(外部)
SBMを自律移動ロボットに搭載した世界初の実証に関する技術概要、開発背景、実験結果の詳細を掲載。
SQBM+(東芝の量子インスパイアード最適化ソリューション)(外部)
東芝デジタルソリューションズが提供するSBMベースの商用最適化ソリューション。技術解説や導入事例を公開。
MIRISE Technologies公式サイト(外部)
デンソー(51%)とトヨタ自動車(49%)が2020年設立した合弁会社。次世代車載半導体の研究開発を行う。
Nature Communications 掲載論文(外部)
本研究の主要論文。組み込み型イジングマシンによる車載多物体追跡システムの強化について報告している。
東芝 量子インスパイアードコンピュータ技術ページ(外部)
SBMの基礎理論と研究開発の経緯を解説した東芝の技術紹介ページ。量子インスパイアードの概念を詳述。
【参考記事】
Autonomous Robot Runs Quantum-Inspired Optimization in Real Time(外部)
従来の集中制御との違いを整理し、23FPS対10FPSの比較や遅延削減の利点を詳述した解説記事。
Quantum-Inspired Chip Powers Real-Time Navigation in Autonomous Robot(外部)
量子技術専門メディアによる報道。追跡精度4%向上、遮蔽評価23%向上の数値を原文どおり確認。
World-first onboard quantum-inspired tech for real-time robot control(外部)
HOTA指標での精度向上数値を確認し、工場・倉庫・建設・農業への展開計画を紹介した技術報道。
MIRISE Technologies to be Launched to Develop Semiconductors(外部)
トヨタ公式ニュースルーム。MIRISEの設立経緯、出資比率、開発領域の3分野を記した公式発表。
Toshiba Advances Real-Time Autonomous Robot Navigation With Novel Optimization Computer(外部)
高性能サーバー不要で最適化処理が可能になった点を強調。占有領域の動的調整の仕組みも詳述。
Toshiba Brings SQBM+™ to AWS Marketplace(外部)
2019年のPoC版AWS公開からSQBM+商用化までの経緯を記した東芝の公式プレスリリース。
【編集部後記】
量子コンピュータの実用化はまだ先の話ですが、その「考え方」だけを借りて今ある半導体で動かすというアプローチは、私たちの身近な技術を着実に前へ進めています。自動運転や物流ロボットが当たり前になる未来に向けて、皆さんが注目している技術や気になるユースケースがあれば、ぜひ教えてください。一緒に追いかけていきたいと思います。


