Lawrence Berkeley National Laboratoryの研究員アンソニー・チャバレラが、素粒子物理学のプロセスであるハドロン化のシミュレーションに成功した。2026年6月30日にORNLが公表した。
チャバレラは、DOEオークリッジ国立研究所(ORNL)内のOak Ridge Leadership Computing Facilityが運営するQuantum Computer User Program(QCUP)を通じ、IBM Quantum Platform上のHeronプロセッサーにリモートアクセスし、104量子ビットを用いた。
今回のシミュレーションでは、ハドロン化の基本メカニズムであるストリング・ブレイキングを対象とし、重クォーク極限を用い、チャバレラがUniversity of Washingtonの大学院生時代に共同開発した「スケーラブル回路同時変分量子固有値ソルバー(SC2-VQE)」で量子真空状態を準備し、1次元に限定した。
結果は古典スーパーコンピューターによる過去の研究と一致した。成果は『Physical Review D』に発表された。
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Calculating a new view on quantum mechanics using quantum computers
【編集部解説】
まず、この研究が「なぜ難しかったのか」から入りましょう。物質の最小構成要素であるクォークを結びつける「強い力」は、量子色力学(QCD)という理論で記述されます。しかし、その動的なふるまいを古典コンピューターで直接計算しようとすると、粒子や時間ステップを1つ増やすたびに必要なメモリが倍々に膨れ上がる「指数関数的スケーリング」の壁に突き当たります。
さらに厄介なのが、格子QCD計算につきまとう「符号問題(sign problem)」です。格子QCDは静的な性質の記述には成功してきましたが、動的過程の直接計算は符号問題に阻まれ、指数関数的な計算資源を要してきました。ハドロン化がこれまで「理論はあるのに計算できない」領域だった理由が、ここにあります。
今回のチャバレラ氏の手法で注目したいのは、力任せに大規模化していない点です。まず古典コンピューターでも扱える小さなサイズで回路を最適化し、そのパラメータがサイズにどう依存するかを見極めてから、大きな系へと「外挿」していく。10〜12量子ビットで学習した規則性を数百量子ビット規模へと引き延ばすという、いわば「型(テンプレート)」をつくる発想です。
ここで、数値について公平に補足しておきます。ORNLの発表は「156個中104個の量子ビットを使用」と記していますが、査読論文(Phys. Rev. D 111, 054501)が実際に用いたと明記しているのは、IBMのHeron量子コンピューター「ibm_torino」で動かした104量子ビットです。そしてibm_torinoに搭載されているのはHeron r1型(133量子ビット)のプロセッサーであり、156量子ビットは2024年7月にチップを再設計したr2型にあたります。
つまり「104」という使用ビット数は一次情報と一致する一方、母数の「156」は世代の異なる別構成の数字である可能性が高い、というのが編集部の見立てです。読者の皆さんが本稿を引用される際は、「133量子ビット機で104量子ビットを使用」と理解しておくのが、より原典に忠実でしょう。
もう一つ、時系列も押さえておきたいところです。ORNLの発表は2026年6月30日ですが、論文自体はPhys. Rev. D 111巻に2025年掲載されたもの。今回の発表は「新発見の速報」というより、成果を運用プログラム(QCUP)の実績として改めて広く伝える性格が強い、と読み解けます。
では、これができると何が変わるのでしょうか。最大の射程はCERNのLHCのような衝突型加速器での「新しい物理」の探索です。加速器では、クォークがハドロン化する直前の姿しか間接的に観測できません。その空白を計算で埋められれば、標準模型を超える現象の兆候を、より精度高く選り分けられる可能性が出てきます。
ポジティブな側面は、応用の広がりにもあります。強く相互作用し、量子もつれが濃密な系を扱う技術は、素粒子物理にとどまりません。新素材の設計や高温超伝導、核物質のふるまいといった、古典計算が苦手としてきた多体問題への波及が期待できるでしょう。
一方で、過度な期待は禁物です。今回はあくまで「重クォーク極限」「1次元」という単純化されたモデルであり、私たちの世界を記述する3次元のフルスケールQCDではありません。結果が古典スパコンの先行研究と一致した点は堅実な前進です。もっとも論文本文に照らせば、この「一致」は主に短時間・初期のふるまいに関するもので、長時間の発展では精度が失われるとされています。つまり「まだ古典でも届く範囲」を丁寧に再現した段階、と読むのが正確でしょう。現行機のエラー率の高さや量子ビット数の制約も、依然として大きな課題です。
潜在的なリスクや留意点として、地政学的な文脈も見逃せません。高性能な量子ハードウェアと関連アルゴリズムは、暗号解読への波及が懸念される領域とも隣接します。実際、先端計算資源は各国の輸出管理の対象になりやすく、「誰がどのハードウェアにアクセスできるか」という問題は、今後の研究の裾野に影響を与えていくとみられます。
規制・制度の観点では、クラウド経由で世界中の研究者が最先端の量子計算機を使えるQCUPのようなモデルが広がるほど、アクセスの公平性とセキュリティの両立が問われることになります。オープンな科学と管理された技術移転、この二つのバランスをどう設計するかは、量子時代の静かな論点になっていくのではないでしょうか。
長期的な視座で締めくくりましょう。注目したいのは、この研究が「量子コンピューターで量子力学そのものを計算し直す」という、道具と理論の関係が反転する瞬間を象徴している点です。かつて量子論は観測装置で確かめる対象でした。それが今、私たちが理論から作り上げた量子の機械によって、理論の奥にある未解明の姿を照らし返す段階に入りつつあります。ハドロン化という宇宙の根源的な仕組みの解明が、人類自身の手による新しい計算の器から立ち上がってくる——ここに「Tech for Human Evolution」の一つの到達点を見ておきたいのです。
【用語解説】
ハドロン化(hadronization)
2つ以上のクォークが強い核力で結びつき、陽子や中性子などの複合粒子「ハドロン」を形成する過程を指す。物質の構造、ひいては宇宙の成り立ちを理解する鍵となる現象である。
ストリング・ブレイキング(string breaking/弦の切断)
ハドロン化の基本メカニズム。クォークを結ぶグルーオンの「ひも」が引き伸ばされ、十分なエネルギーが解放されると切断し、新たなクォーク・反クォーク対が生じてハドロンを作る。
クォーク/グルーオン
クォークは物質を構成する最小単位の素粒子。グルーオンはクォーク同士を「強い力」で結びつける粒子であり、両者の関係を記述するのがQCDである。
量子色力学(QCD:Quantum Chromodynamics)
強い力がクォークとグルーオンをどう結びつけるかを記述する理論。静的な性質の計算では成果を上げてきたが、動的過程の直接計算は古典コンピューターには極めて重い。
重クォーク極限(heavy quark limit)
質量の大きいクォークは軽いクォークほど空間的に広がらず、シミュレーションの格子上に点として収まりやすい。この扱いやすさを利用して計算し、後に軽いクォークのふるまいへ外挿する近似手法。
スケーラブル回路同時変分量子固有値ソルバー(Scalable Circuit Concurrent Variational Quantum Eigensolver:SC2-VQE)
チャバレラ氏がUniversity of Washington在籍時に共同開発した計算技術。小規模な系で回路を最適化し、そのパラメータのサイズ依存性を見極めて大規模系へ外挿する。関連研究で用いられたSC-ADAPT-VQEの系譜に連なる手法である。
Heron(ヘロン)/ibm_torino
IBMの量子プロセッサーの型式名。r1型は133量子ビット(機体名ibm_torino)、r2型(2024年7月再設計)は156量子ビット。今回の論文が使用したと明記しているのはibm_torinoである。
【参考リンク】
OLCF|Quantum Computing User Program(QCUP)(外部)
研究者に商用量子計算資源へのクラウドアクセスを提供するプログラムの公式ページ。利用対象や申請手順を解説する。
IBM Quantum|Hardware and roadmap(外部)
IBMの量子ハードウェア公式ページ。Eagle、Heron r1/r2など各プロセッサーの量子ビット数を確認できる。
IBM|What is a qubit?(外部)
量子ビットの基礎を平易に解説するIBM公式ページ。重ね合わせなど本記事の前提概念の理解に役立つ。
Lawrence Berkeley National Laboratory(Berkeley Lab)(外部)
研究を主導した研究者が所属する米エネルギー省の国立研究所。基礎科学から計算科学まで幅広く担う。
CERN|The Large Hadron Collider(LHC)(外部)
本記事に登場する世界最大の衝突型加速器の公式解説ページ。陽子衝突実験の目的と仕組みを紹介する。
【参考動画】
【参考記事】
String Breaking in the Heavy Quark Limit with Scalable Circuits(arXiv)(外部)
上記論文のプレプリント本文。ibm_torinoの結果が初期の振動は再現する一方、長時間では精度が失われる旨を記す。「一致」の範囲を確認する根拠とした。
Researchers Use IBM Quantum Hardware to Model a Key Particle Physics Process(The Quantum Insider)(外部)
ORNL発表を受けた業界メディアの報道。156量子ビット中104量子ビット使用とし、成果が古典スパコンの先行研究と一致したと伝える。
Quantum computer simulates hadronization, reproducing string breaking with 104 qubits(Phys.org)(外部)
単純化モデルのハドロン化シミュレーション成功を報じる科学メディア記事。156量子ビット中104量子ビット使用や掲載誌に言及する。
Quantum simulations of hadron dynamics in the Schwinger model using 112 qubits(OSTI.GOV)(外部)
研究者が関わる関連研究。133量子ビットHeron機で112量子ビットを使用し、外挿手法(SC-ADAPT-VQE)の系譜と数値を確認する補助資料とした。
Processor types|IBM Quantum Documentation(外部)
IBM公式のプロセッサー型式解説。Heron r1が133量子ビット、r2が156量子ビットと明記し、世代差の裏付けとした一次情報。
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【編集部後記】
私たちが理論から生み出した量子の機械が、その理論の奥にある未解明の姿を照らし返す——そんな不思議な循環が、いま静かに始まっているのかもしれません。皆さんは、量子コンピューターと聞いて何を思い浮かべるでしょうか。暗号、創薬、それとも宇宙の成り立ちでしょうか。この技術が「触れられる未来」に近づいたとき、ご自身の関心とどこで交わりそうか、少しだけ想像を巡らせてみませんか。私たちも、その景色を一緒に追いかけていけたら嬉しいです。

