株式会社スペースデータは、Unreal Engine 5.5上に構築したカスタム環境物理シミュレーション基盤「CEPSim(Custom Environment Physics Simulator)」を、開発者・クリエイター向けにGitHub上で公開した。
CEPSimは、風速・電場・温度などの環境データを読み込み、Pythonで物理法則を記述・適用したうえで、その挙動を3D空間上にリアルタイムで可視化するUnreal Engineの拡張ツールである。環境データはベクトル場とスカラー場の双方に対応し、3次元グリッドデータの補間にも対応する。設計上、ChatGPTなどの汎用LLMに記述ルールを与えることで、自然言語からの環境データや物理スクリプトの生成も可能である。研究・教育目的での利用は制限なく可能で、商用利用は別途相談となる。リポジトリはhttps://github.com/ryukih/CEPSim-Publicで公開されている。開発はCSOのヒョウドウ・リュウキ氏およびミヤモト・シュウゴ氏が中心となった。
From:
スペースデータ、Unreal Engine向けカスタム環境物理シミュレーション基盤「CEPSim」を開発者・クリエイター向けにGitHubで公開
【編集部解説】
CEPSimの本質を一言で表すなら、ソフトウェア工学の鉄則である「関心の分離」を、Unreal Engineの物理シミュレーションに持ち込んだ拡張基盤と言えます。これまで風や電場、温度といった環境条件ごとにバラバラの実装が必要だった現場に対して、「環境データ」と「物理法則」を別レイヤーに切り分け、それぞれを共通フォーマットとPythonスクリプトとして記述する仕組みを提供します。
地味に思える設計判断ですが、影響範囲は決して小さくありません。同じ風のデータに対して空力モデルとパーティクル拡散モデルを差し替えて比較したり、同じ電磁気の方程式を地球周辺と火星周辺の異なる磁場データに適用したり、といった「組み合わせ実験」が、エンジン本体を再ビルドすることなく可能になります。研究開発における試行錯誤のサイクルが、大きく速まる可能性を秘めています。
特筆すべきは「AI-nativeな設計思想」と表現された部分です。一般的に最近の開発ツールはAIチャットボットを内蔵する方向へ進みがちですが、CEPSimは敢えて逆を選びました。記述ルール自体を公開・標準化することで、ユーザーが手元のChatGPTやその他の汎用LLMにルールを渡し、自然言語からCEPSim用のコードを生成させるワークフローを成立させる、という発想です。これはLLMの進化サイクルにツール側が縛られないという意味で、長期的に見て合理性の高い選択と捉えられます。
世界に目を向けると、産業向けの物理シミュレーションは現在NVIDIA Omniverseが大きな潮流を作っており、AI物理(AI Physics)とデジタルツインを軸とした製造業・自動車・エネルギー分野での実装が急速に進んでいます。ただし、Omniverseは高性能GPUとOpenUSDという独自エコシステムを前提としており、参入ハードルは決して低くありません。これに対しCEPSimは、世界中のゲーム開発者や研究者にすでに馴染みのあるUnreal Engine 5.5を土台とし、GitHubで公開するというアプローチを取りました。物理シミュレーション基盤の「民主化」という観点で、補完的なポジションを狙っていると見るのが自然でしょう。
開発を主導するヒョウドウ・リュウキ氏は、NASA・ESA・JAXAの惑星探査計画に従事した惑星科学者であり、土星の環の年齢を巡る従来説に再考を迫る研究を「Nature Geoscience」誌に発表した実績を持つ研究者です。スペースデータが掲げる「太陽系デジタルツイン」構想の中で、CEPSimは惑星規模の物理現象を扱うための基盤技術として位置づけられています。つまり、これは単なるゲーム開発支援ツールではなく、宇宙環境シミュレーションの民主化に向けた布石でもあります。
応用範囲についても触れておきます。プレスリリースでは防災シミュレーション、教育、建築・都市設計の事前評価などが想定ユースケースとして挙げられていますが、現在世界中で議論されている「ワールドモデル」や「フィジカルAI」、つまりロボットや自律システムが現実世界の物理を学ぶための仮想環境構築という文脈でも、有力な選択肢となり得ます。Unreal Engineの高品質な3D表現と組み合わせ可能な物理シミュレーション基盤は、合成データ生成の現場でも価値を発揮するはずです。
一方、潜在的なリスクや注意点もあります。自然言語からの物理スクリプト生成は強力ですが、LLMが出力する物理モデルが必ずしも科学的に正しいとは限りません。生成されたコードを実環境の意思決定(防災予測など)に使う場合、人間による検証プロセスをどう組み込むかは、利用者側の責任として残ります。また、研究・教育用途は無償ですが、商用利用条件は「順次案内予定」とされており、本格的なビジネス活用にはライセンス面の動向確認が今後必要になります。
総じて、CEPSimの登場は、物理シミュレーションが「特定エンジニアの専門領域」から「自然言語で扱えるリソース」へと移行していく流れを象徴する出来事です。Unreal Engineの拡張ツールという技術的な位置づけを超えて、シミュレーションを誰もが使える社会基盤へと近づける一手として、注目に値します。
【用語解説】
ベクトル場/スカラー場
空間内の各地点に「向きと大きさ」を持つ量(風速、電場など)を割り当てたものがベクトル場、温度や気圧のように「大きさ」のみを持つ量を割り当てたものがスカラー場である。物理シミュレーションで環境条件を数学的に記述する際の基本的な枠組みだ。
3次元グリッドデータの補間
空間を格子状に区切って各点に値を持たせたデータについて、格子の間にある任意の地点の値を、周囲の格子点の値から推定する処理を指す。シミュレーション空間内を連続的に動く物体に環境影響を与えるために必要となる。
関心の分離(Separation of Concerns)
ソフトウェア工学における基本原則の一つで、システムを役割の異なる独立した部品に分けて設計する考え方である。CEPSimでは「環境データ」と「物理法則」を分離することでこの原則を実装している。
AI-native
最初からAI活用を前提に設計された製品やシステムを指す概念である。CEPSimでは記述ルール自体を公開することで、外部の汎用LLMが自然言語からシミュレーションコードを生成できる構造を採用している。
LLM(大規模言語モデル/Large Language Model)
膨大なテキストデータで学習させた自然言語処理AIモデルの総称である。ChatGPTやClaudeなどに代表される。
デジタルツイン
現実世界の物体や環境、システムをデジタル空間上に精密に再現し、相互に連動させる技術である。製造業、都市開発、宇宙開発などへの応用が進んでいる。
フィジカルAI/ワールドモデル
ロボットや自律システムが現実世界の物理法則を理解し動作するためのAI技術、およびその学習基盤となる仮想世界モデルを指す。シミュレーション環境はフィジカルAIの学習データ供給源として中核を担う。
OpenUSD(Universal Scene Description)
3Dシーンや空間データを記述するためのオープンな標準フォーマットだ。元々ピクサーが開発し、現在はNVIDIA Omniverseなど産業向けデジタルツインの基盤として広く採用されている。
CSO(Chief Science Officer/最高科学責任者)
企業における科学研究領域の最高責任者を指す役職である。
PoC(Proof of Concept/概念実証)
新しいアイデアや技術が実現可能かを小規模に検証するプロセスを意味する。
【参考リンク】
株式会社スペースデータ 公式サイト(外部)
宇宙とデジタル技術の融合を掲げる日本のテクノロジースタートアップ。デジタルツイン構築を推進している。
CEPSim GitHubリポジトリ(外部)
カスタム環境物理シミュレーション基盤のソースコードおよびサンプルが公開されているリポジトリ。
Unreal Engine 公式サイト(Epic Games)(外部)
ゲーム、映像、建築可視化など幅広い分野で使われる3Dリアルタイムエンジン。CEPSimの基盤である。
GitHub(外部)
ソースコードのホスティングおよびバージョン管理サービスの世界的標準プラットフォーム。
Python 公式サイト(外部)
科学計算、機械学習などで利用される汎用プログラミング言語。CEPSimの物理記述に採用されている。
ChatGPT(OpenAI)(外部)
代表的な汎用LLMサービス。CEPSimの自然言語からのコード生成ワークフローで活用される。
NVIDIA Omniverse(外部)
NVIDIAが提供する産業向けデジタルツイン・物理AIシミュレーション基盤。
JAXA(宇宙航空研究開発機構)(外部)
日本の宇宙開発を担う国立研究開発法人。スペースデータと連携実績がある。
NASA(米国航空宇宙局)(外部)
米国の航空宇宙開発を担う政府機関。
ESA(欧州宇宙機関)(外部)
欧州22か国が加盟する宇宙開発機関。
Nature Geoscience(外部)
地球科学・惑星科学分野における国際的に評価の高い学術誌。
【参考記事】
NVIDIA Announces Omniverse Real-Time Physics Digital Twins With Industry Software Leaders(外部)
NVIDIAがCAEデジタルツイン向けOmniverse Blueprintを発表。最大1,200倍のシミュレーション高速化を実現する。
NVIDIA Expands Omniverse With Generative Physical AI(外部)
NVIDIAがフィジカルAI向けにOmniverseを拡張。50兆ドル規模の製造・物流業の革新を見据えたBlueprint公開。
Siemens digital twin software targets faster factory upgrades(外部)
PepsiCoがSiemens Digital Twin Composer導入で問題90%事前発見、スループット20%向上を実現した事例。
Into the Omniverse: How Industrial AI and Digital Twins Accelerate Industries(外部)
2026年3月公開のNVIDIA公式ブログ。Dassault Systèmesとの提携と多産業へのAI物理展開を解説している。
NVIDIA and Partners Showcase the Future of AI-Driven Manufacturing at Hannover Messe 2026(外部)
Hannover Messe 2026に合わせたNVIDIA記事。フィジカルAIとデジタルツインの統合戦略加速を伝えている。
スペースデータの兵頭龍樹博士、土星の環に関する定説を覆すメカニズムを解明(外部)
ヒョウドウ氏らによる土星の環の研究「Nature Geoscience」掲載を伝える記事。
【編集部後記】
私たちは普段、シミュレーションを「専門家が使う難しい道具」として遠くから眺めがちですが、CEPSimの登場によって、その距離は確実に縮まりつつあります。風や温度、電場といった目に見えない物理現象を、自分の言葉で記述し、3D空間で確かめられる時代が始まろうとしています。みなさんなら、この基盤を使ってどんな世界を再現してみたいでしょうか。災害から街を守るシミュレーションでしょうか、それとも未踏の惑星表面を歩く感覚でしょうか。読者のみなさんと一緒に、この可能性の広がりを探っていけたら嬉しく思います。

