カリフォルニア大学アーバイン校(UC Irvine)の研究チームは、2026年4月23日付の『Nature Neuroscience』誌に、アルツハイマー病における記憶障害の要因として嗅内皮質におけるドーパミン機能不全を初めて特定した研究を発表した。研究は同医学部のチャンセラーズ・フェローで解剖学・神経生物学准教授のケイ・イガラシ氏が率いた。
アルツハイマー病のマウスモデルを用いた実験では、嗅内皮質のドーパミンレベルが正常値の5分の1未満にまで減少していた。オプトジェネティクス技術によりドーパミンレベルを回復させたところ、記憶形成能力が回復した。さらに、パーキンソン病治療薬レボドパの投与でも神経活動が正常化し、記憶能力が改善した。同チームは2021年にも、嗅内皮質におけるドーパミンが記憶形成に不可欠であることを発見していた。
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Dopamine Deficiency Found to Drive Memory Impairment in Alzheimer’s Disease
【編集部解説】
今回 UC Irvine から発表された研究は、アルツハイマー病治療の世界に新しい地図を描く可能性を秘めた成果です。この記事を innovaTopia として「いま」報じる理由は、創薬の主戦場がこの数年で大きくシフトしようとしているまさにその転換点にあるからです。
これまでアルツハイマー病の治療開発は、脳内に蓄積するアミロイドβやタウといった「有害タンパク質を除去する」アプローチが主流でした。2023年以降に米国 FDA が承認したレカネマブ(エーザイ・Biogen)やドナネマブ(Eli Lilly)はその代表例ですが、進行を一定程度遅らせるにとどまり、失われた記憶を取り戻すことはできません。今回の研究は、そもそも「記憶を保存する回路そのもの」が壊れているのではないか、という根本的な問いを投げかけています。
注目すべきは、舞台となった嗅内皮質という脳領域です。ここは記憶の入り口にあたる場所で、アルツハイマー病で最も早く障害が現れることが古くから知られていました。研究チームは、この領域に届くドーパミン神経の働きが病気のごく初期から損なわれ、それが結果として記憶形成を妨げていることを示しました。マウスの実験では正常時の5分の1未満までドーパミンが減っており、機能不全の規模の大きさがうかがえます。
ドーパミンというと「快楽物質」「報酬系」というイメージが先行しがちですが、脳科学の世界では近年、ドーパミンを記憶を脳に「刻印するスイッチ」として捉え直す動きが進んでいます。新しい体験が長期記憶に残るかどうかは、その瞬間にドーパミン信号が押されるかで決まる ── そう考えると、今回の発見が示す意味の重さが見えてきます。
ここで実用面のインパクトを大きくしているのが、レボドパ(L-DOPA)というキーワードです。レボドパは1960年代から臨床応用が始まり、半世紀以上の使用実績を持つパーキンソン病治療薬です。新薬をゼロから開発すれば10年単位の時間と数千億円規模の資金が必要ですが、既存薬の適応を広げる「ドラッグ・リパーパシング(再利用)」であれば開発期間を大幅に短縮できる可能性があります。
実は、この方向性を後押しする観測データもすでに出ています。2024年に発表された米国 NACC データセット(1,942名のコホート)を用いた解析では、レボドパ/カルビドパを服用していた人は、軽度認知障害(MCI)から認知症への進行が中央値で2.1年遅れていたと報告されています。動物実験で示されたメカニズムと、人間集団で観察された傾向が一致しつつある点は、研究の信頼性を高める材料といえます。
一方で、慎重に見るべきリスクもあります。レボドパは長期使用でジスキネジア(不随意運動)などの副作用が知られており、健常な高齢者に予防的に投与した場合の死亡率上昇を示唆するデータも報告されています。アルツハイマー病に最適な投与量は、パーキンソン病で使われる用量(典型的には1日300mg)よりかなり低い可能性が議論されており、用量設計を含む臨床試験の設計が今後の鍵となるでしょう。
日本の読者として見逃せないのは、研究チームの構成です。研究を率いたケイ・イガラシ氏は東北大学大学院医学系研究科にも所属する日本人研究者で、共著者には理化学研究所脳神経科学研究センターの西道隆臣(さいどう たかおみ)氏が名を連ねています。今回用いられた APP ノックインマウスは、まさに西道氏のグループが開発した世界標準モデルで、日本発の基盤技術が国際的なブレークスルーを支えている構図が見えます。
長期的に見ると、この研究はアルツハイマー病とパーキンソン病という、これまで別個に扱われてきた2大神経変性疾患の治療研究を結びつける触媒になるかもしれません。「タンパク質の掃除」から「神経回路の修復」へ ── 創薬パラダイムの軸足が動き始めたとき、診断技術(血液バイオマーカーや PET 画像)、デジタルヘルスによる早期発見、そして既存薬の再評価という複数の領域が連動し、認知症医療の景色を変えていく可能性があります。超高齢社会のフロントランナーである日本にとって、ここで起きている変化を早い段階でキャッチアップしておく価値は十分にあるはずです。
【用語解説】
嗅内皮質(きゅうないひしつ)
側頭葉にある脳領域で、海馬への情報の入り口として機能する。記憶形成の中核を担い、アルツハイマー病で最も早く障害が現れる場所として知られる。
ドーパミン
神経伝達物質の一種。報酬や快感に関わるイメージが強いが、近年は新しい経験を長期記憶として「保存」させるスイッチ役としても注目されている。
オプトジェネティクス(光遺伝学)
特定の神経細胞に光感受性タンパク質を発現させ、光の照射でオン・オフを操る技術。ミリ秒単位での精密な神経活動制御を可能にし、脳科学に革命をもたらした手法。
レボドパ(L-DOPA)
体内でドーパミンに変換される前駆物質。1960年代から臨床応用が始まり、パーキンソン病治療薬として半世紀以上の実績を持つ。
APPノックインマウス
アルツハイマー病の原因遺伝子(アミロイド前駆体タンパク質)に変異を導入したマウス。日本の理化学研究所・西道隆臣氏のグループが開発した第3世代モデルで、現在世界中の研究で標準的に使われている。
アミロイドβ・タウ
アルツハイマー病患者の脳に蓄積する2大病的タンパク質。長らく治療標的の中心とされてきたが、これらを除去しても記憶機能が完全には戻らないことが課題となっている。
連合記憶(れんごうきおく)
匂いと場所、音と出来事といった、複数の情報を結びつける記憶のこと。アルツハイマー病の初期段階で最も損なわれやすいタイプの記憶として知られる。
ドラッグ・リパーパシング(既存薬再開発)
既に承認されている薬を、別の疾患の治療に転用するアプローチ。安全性データが揃っているため、ゼロから新薬を開発するより開発期間とコストを大幅に短縮できる。
軽度認知障害(MCI)
正常な加齢と認知症の中間にあたる状態。年に10〜15%の割合で認知症へ進行するとされ、早期介入の重要なターゲットとなっている。
【参考リンク】
UC Irvine School of Medicine(外部)
カリフォルニア大学アーバイン校の医学部公式サイト。今回の研究を発表した研究機関。
Igarashi Lab @ UC Irvine(外部)
研究を率いたイガラシ氏の研究室公式サイト。記憶神経回路に関する論文一覧やラボメンバー情報を掲載。
Nature Neuroscience(掲載論文)(外部)
今回の研究論文が掲載された学術誌のページ。原著論文の全文と図表を確認できる。
理化学研究所 脳神経科学研究センター(CBS)(外部)
APPノックインマウスを開発した西道隆臣氏が所属する日本の研究機関。共著者として今回の研究に参加。
東北大学大学院医学系研究科(外部)
イガラシ氏が認知生理学研究室を率いる日本の研究拠点。第一著者のナカガワ・タツキ氏も所属する。
UC Irvine News(プレスリリース全文)(外部)
UC Irvine の大学広報による公式プレスリリース。研究の意義を伝える解説を確認できる。
【参考記事】
Early dopamine disruption in the entorhinal cortex of a knock-in model of Alzheimer’s disease(Nature Neuroscience)(外部)
イガラシ氏らが2026年4月に発表した原著論文。APPノックインマウスを用い、外側嗅内皮質(LEC)に投射するドーパミン神経が病理初期から機能不全に陥り、LEC第2/3層の連合記憶エンコーディングを破綻させること、およびオプトジェネティクスとレボドパ投与の両方で連合学習が回復することを示した。
Reconsidering dopaminergic modulation in Alzheimer’s disease(Alzheimer’s & Dementia, 2025)(外部)
NobiliとD’Amelioによる解説論文。レボドパ/カルビドパ服用者ではMCIから認知症への進行が中央値で2.1年遅延したこと、健常者群で全死因死亡率の上昇という安全性シグナルがあったことを論じる。低用量レボドパによる第II相無作為化比較試験の必要性を提言。
Association between the use of levodopa/carbidopa and the disease outcomes(medRxiv, Sárkány et al., 2024)(外部)
1,942名のコホートと20,348人年の追跡データを用いた解析。レボドパ/カルビドパ服用者では脳脊髄液中のアミロイドβ、リン酸化タウ、総タウのレベルが低下し、MCIから認知症への進行が遅延することを示した観察研究。
Dopamine Depletion: The Hidden Driver of Alzheimer’s Memory Loss(Neuroscience News)(外部)
今回の研究を一般読者向けに解説した記事。共著者一覧を掲載し、ドーパミンを記憶の「保存ボタン」と表現するなど、平易な比喩で研究意義を伝えている。
Dopamine deficiency found to drive memory impairment in Alzheimer’s disease(Medical Xpress)(外部)
科学ニュースサイトによる解説記事。論文DOIや筆頭著者のナカガワ・タツキ氏を含む共著者情報を提示。
Roche presents novel therapeutic and diagnostic advancements in Alzheimer’s at AD/PD 2025(外部)
2025年4月のAD/PD国際会議でのRocheの発表資料。トロンチネマブの第III相プログラム開始など、従来型のアミロイド除去アプローチの最新動向を確認できる比較対照資料。
【編集部後記】
ドーパミンと聞くと「やる気」や「ご褒美」を思い浮かべる方が多いかもしれません。でも今回の研究は、それが記憶を脳に焼きつける「保存ボタン」のような役割も担っているかもしれない、という新しい視点を示してくれました。
みなさんの周りに、認知症と向き合っているご家族や知人はいらっしゃるでしょうか。あるいは、ご自身の将来について考えることはありますか。「タンパク質を取り除く」治療から「壊れた回路を修復する」治療へ ── アルツハイマー病へのアプローチが変わろうとしている今、半世紀使われてきたパーキンソン病の薬が認知症治療の鍵になるかもしれない、という展開をどう感じますか。一緒に未来の医療の地図を眺めていけたら嬉しいです。
