東京大学大学院工学系研究科の松尾・岩澤研究室は、2026年7月22日、日本語の講義動画から英語字幕を自動生成し、SRT形式のファイルとして出力するデスクトップソフトを開発したと発表した。Apache-2.0ライセンスのOSSとして無償公開し、公開リポジトリはGitHub上のmatsuolab/lecture_subtitle_translatorである。
書き起こし、日本語整形、英訳、字幕分割、品質チェックまでを自動化し、音声認識にはWhisperXを用いる。翻訳にはOpenAI、Gemini、ローカルLLMを切り替えて利用でき、Windows・macOS・Linux向けのビルドが公開されている。工学系研究科は2025年度から大学院授業の英語化を進めており、大学院生の約4割が留学生である。同ソフトは受講者4,130名の「深層学習/Deep Learning 基礎講座」の英語化で使われた。担当者ヒアリングによる試算では、2時間の講義1本あたりの作業時間が約30.3時間から約25.5時間となり、約16%(15.8%)短縮されると見積もられた。
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東京大学 松尾・岩澤研究室、講義動画に英語字幕を自動付与するソフトを開発
【編集部解説】
松尾研が公開したのは、派手な新モデルではありません。日本語の講義動画を英語字幕に変えるという、地味だけれど手のかかる作業を自動化する道具です。けれどこの「地味さ」の奥に、いま私たちが注目すべき変化が見えます。
まず押さえておきたいのは、これが東京大学工学系研究科の「授業の英語化」という制度変更とセットで生まれた点です。同研究科は2025年度から一部の授業で英語化を始めており、大学院生の約4割は留学生が占めています。日本語で積み上げてきた膨大な講義資産を、どうやって英語で届け直すか——この現実的な宿題に対する、研究室からの回答が今回のソフトなのです。
技術的にいちばん面白いのは、AIに「やらせないこと」を明確に決めている設計思想だと編集部は考えます。
字幕には、1秒あたりの表示文字数(CPS)や1行の文字数などについて、媒体や言語ごとに異なる制作基準・ガイドラインがあります。ところが現在の大規模言語モデルは、文章を書くのは得意でも、文字を正確に「数える」ことは苦手です。そこでこのソフトは、LLMには「短くする」「自然にする」といった方向づけだけを任せ、基準を満たしているかの検査と調整はプログラム側が担当します。
生成AIの弱点を無理に克服させるのではなく、確実に守れるルールは従来型のプログラムに任せる。この役割分担は、字幕に限らず、AIを実務に組み込むうえで応用の効く考え方です。「AIに何をさせ、何をさせないか」を切り分ける設計こそが、使えるプロダクトと使えないプロダクトを分けます。
もう一つ、見逃せない変化があります。
このソフトを導入した松尾研内のワークフローでは、字幕づくりにおける人の仕事が「ゼロから作る」作業から「機械が作ったものを確認・修正する」作業へと移りました。翻訳担当者は、英訳の手直しから字幕編集、ファイル出力までを一つのアプリで完結できるようになっています。2時間の講義1本あたりの作業時間は、担当者ヒアリングにもとづく試算で約30.3時間から約25.5時間へ、およそ16%(15.8%)縮まる見積もりです。
これは字幕制作だけの話ではありません。翻訳、文章作成、コーディング——多くの知的作業でいま起きている「創作から検証へ」という重心の移動を、教育の現場で具体的に示した一例だと捉えられます。人間の役割が、生み出すことから見極めることへと変わっていく。その入口に私たちは立っています。
一方で、冷静に見ておくべき点もあります。
削減率の「約16%」は、各工程の担当者が見込む時間をヒアリングして出した試算値であり、実作業の前後比較実験ではありません。翻訳品質の自動評価にはCOMETなどの指標も使われていますが、松尾研自身が、納品字幕が機械翻訳の出力を編集して作られたため数値が上振れしうること、指標だけでは字幕の読みやすさや確認の手間を測りきれないことを認めています。誇張のない、抑制のきいた開示姿勢だと言えるでしょう。
そして最大のポイントは、これがApache-2.0ライセンスのオープンソースとして無償公開されたことです。工学の分野では英語が国際的な主要言語であり、日本語で講義を積み上げてきた大学ほど、英語化のコストは重くのしかかります。日本を代表するAI研究室が、自分たちの内製ツールを囲い込まず、同じ課題を抱える教育・研究機関に開放した——ここに「知能を社会へ還元する」という松尾研の姿勢がにじみます。公開版はすぐにダウンロードでき、既存のSRTを編集するだけならAPIキーなしでも試せます。ただし、書き起こしから翻訳までを自動処理するには、構成に応じて、LLMのAPIキーまたはローカルLLM環境に加え、WhisperX用のGPU・Docker環境またはリモートバックエンドの準備が必要です。
未来は、突然変わるのではありません。こうした足元の道具が静かに広がり、教える側と学ぶ側の言語の壁を少しずつ削っていく。その積み重ねが、数年後の教育のかたちを変えていきます。
【用語解説】
SRT形式
動画に字幕を表示するために広く利用されているファイル形式のひとつである。字幕の番号、表示する開始・終了時刻(タイムコード)、テキストを並べただけの単純なテキストファイルで、多くの動画プレーヤーや配信サービスが対応している。
CPS(Characters Per Second)
1秒あたりに画面へ表示する文字数を指す、字幕の「読みやすさ」の目安である。この値が高すぎると視聴者が読み切れないため、字幕制作では上限を設けることが多い。適切な上限は言語や対象者、媒体によって異なる。今回のソフトは、この数え上げをプログラム側で管理している。
LLM(大規模言語モデル)
膨大なテキストを学習し、文章の生成や翻訳、要約などを行うAIの総称である。自然な文を作るのは得意だが、文字数を正確に数えるといった機械的な処理は苦手とされ、今回の設計思想もこの弱点を前提にしている。
OSS(オープンソースソフトウェア)
ソースコードが公開され、ライセンスの条件(著作権表示やライセンス文の添付など)を守れば、誰でも利用・改変・再配布できるソフトウェアを指す。今回のソフトはこの形態で無償公開され、他の教育・研究機関がそのまま導入したり、自分たちの用途に合わせて改良したりできる。
Apache-2.0ライセンス
代表的なオープンソースライセンスのひとつである。商用利用を含めて幅広く自由に使えるうえ、改変や再配布の条件が比較的ゆるやかで、企業や組織が採用しやすいことで知られる。なお、プロジェクト本体はApache-2.0だが、同梱される第三者コンポーネント(FFmpeg等)はそれぞれ別のライセンスに従う。
【参考リンク】
東京大学 松尾・岩澤研究室(Matsuo Lab)(外部)
今回ソフトを開発・公開した研究室の公式サイト。講座情報やニュース、研究内容を発信している。
lecture_subtitle_translator(GitHub)(外部)
今回公開されたソフト本体の公開リポジトリ。技術的な仕組みや使い方、評価結果はWikiで確認できる。
WhisperX(GitHub)(外部)
本ソフトが音声認識に用いる技術。Whisperを拡張し、語・文字単位のタイムスタンプ取得を可能にした。
OpenAI(外部)
翻訳・補正に選べるLLMの提供元。音声認識の基盤技術Whisperの開発元でもある企業である。
Google Gemini(外部)
同じく翻訳・補正に選べるLLM。Googleが開発する対話型・マルチモーダルのAIモデルである。
COMET(GitHub)(外部)
今回の品質評価で用いられた、機械翻訳の品質を自動採点するための評価指標・ツールである。
【参考記事】
大学院の授業の英語化について(東京大学工学系研究科)(外部)
英語化方針を大学が公式に説明した文書。大学院生の約40%が留学生であることを明記している。
東大大学院工学系研究科、2025年度から授業を英語で実施へ(東大新聞オンライン)(外部)
英語化の背景を報じた記事。2025年度からの方針や留学生が約4割を占める現状を伝えている。
【徹底解説】東大工学系研究科の授業英語化 英語率を算出 なぜ英語化か・日本の工学は英語で始まった(東大新聞オンライン)(外部)
英語が工学の主要言語となった経緯や、英語化をめぐる賛否の論点を掘り下げた解説記事である。
【編集部後記】
GitHubのmatsuolab/lecture_subtitle_translatorを開くと、ソフト本体だけでなく、作業時間を約30.3時間から約25.5時間へ短縮すると見積もった評価データや再現手順までWikiに載っている。
中身を読むと、LLMには「短く・自然に」の方向づけだけを任せ、CPSや文字数のルールはプログラムが守る、という役割分担の設計がわかる。ではこの「AIに数えさせない」線引きは、講義字幕以外のどの作業まで、Apache-2.0のまま持ち込めるのか。