イングランド銀行の政策担当者メーガン・グリーンは5月31日、クロアチアのドゥブロブニクで開かれた会議で、ステーブルコインの人気は近く衰え、伝統的な銀行預金のデジタル版であるトークン化預金に取って代わられる可能性があると述べた。
同氏は中央銀行デジタル通貨、ステーブルコイン、デジタル預金のいずれにも市場はあるとしつつ、最終的にはトークン化預金が勝者になりうるとの見方を示した。一方、同じパネルに登壇したアメリカ連邦準備制度の政策担当者クリストファー・ウォラーは、ステーブルコインをコストを下げうる金融イノベーションであり決済手段だと擁護し、過剰な規制で押し潰すべきではないと主張した。グリーンはステーブルコインの安定性や規制、不正利用への懸念にも言及した。
From: Stablecoin demand may soon fade, BoE’s Greene says
【編集部解説】
まず押さえておきたいのは、2026年5月31日のこの発言が「暗号資産ブームの是非」ではなく、「デジタル時代の通貨は誰が発行すべきか」という、より根源的な問いを突いている点です。グリーン氏が示したのは、民間の暗号資産企業が発行するステーブルコインと、規制下の商業銀行が発行するトークン化預金との、主導権争いの構図です。
ここで鍵になる「トークン化預金」を整理しておきます。これは、私たちが銀行に預けている預金を分散台帳(ブロックチェーンなど)の上でデジタルなトークンとして表現し、24時間・即時に近い送金や決済を可能にしようとするものです。発行主体が規制下の銀行であるため、預金が銀行システムの内側にとどまる点が、暗号資産企業が発行するステーブルコインとの決定的な違いです。
グリーン氏の「カメ・ウサギ・サイ」というたとえは秀逸です。CBDC(中央銀行デジタル通貨)は慎重に進むカメ、ステーブルコインは先行して走るウサギ、そして本命視するトークン化預金は後から力強く追い上げるサイ、という見立てでした。最終的には3つが共存しうるとしながらも、あえて一つに賭けるならサイだ、と語りました。
なぜ銀行発の選択肢が有力視されるのか。それは、ステーブルコインの普及の仕方によっては、商業銀行から預金が流出し、銀行の資金基盤が痩せていきかねないというリスク認識があるからです。預金は銀行が融資を生み出す原資であり、ここが細ると中央銀行の金融政策が経済に効きにくくなる、というのがグリーン氏の懸念の核心です。
一方で、同じ壇上のアメリカ連邦準備制度のウォラー氏は正反対の立場を取りました。ステーブルコインは決済コストを下げる純粋な金融イノベーションであり、競争を持ち込む存在にすぎないと擁護したのです。「銀行が脅威に感じていないなら、なぜこれほど激しく阻止のロビー活動をするのか」という反問は、規制論議の本質を鋭く突いています。
この対立は、英米の制度的な路線の違いとも重なります。イングランド銀行はベイリー総裁の段階からトークン化預金を優先する姿勢を打ち出しており、HSBCやNatWest、Lloydsなど英国の大手銀行は2026年半ばまでの実証実験(パイロット)を進めています。グリーン氏の発言は、その路線を中央銀行政策担当者の言葉で裏づけた格好です。
数字の面でも、この議論には現実味があります。ステーブルコインの供給規模は、複数の市場データによると2026年初頭時点で約3100億ドル前後の水準にあり、2024年から2025年初頭にかけての急拡大とは対照的に、直近では横ばいないし微減の局面が見られます。元記事が「発行額はここ数か月で頭打ちになっている」と述べた背景には、こうした実データの変調があります。
ただし、グリーン氏の見立てを「ステーブルコイン敗北論」と単純化するのは早計です。トークン化預金には、異なる銀行間でスムーズにやり取りしにくいという技術的課題が長く残ってきました。英国のパイロットはまさにこの相互運用性を検証する段階にあり、「理論上の優位」が「実装の優位」に変わるかどうかは、まだ証明されていません。
innovaTopia の視点から付け加えるなら、この論争で本当に問われているのは速度や手数料ではなく、「デジタルなお金の信頼を誰が担保するのか」という統治の問題です。民間が担うのか、規制された銀行が担うのか、あるいは中央銀行が直接担うのか。私たちが日常で使うお金の足元で、その答えが静かに書き換えられようとしています。今この発言に注目すべき理由は、ここにあります。
【用語解説】
トークン化預金(tokenised deposits)
商業銀行に預けられた預金を、分散台帳(ブロックチェーンなど)の上で扱えるデジタルなトークンとして表現したもの。発行主体が規制下の銀行であるため、資金が銀行システムの内側にとどまる。24時間・即時に近い送金やプログラム可能な決済を可能にしようとする点で注目される。
ステーブルコイン(stablecoin)
法定通貨などに価値を連動させ、価格を安定させるよう設計された暗号資産。主に暗号資産企業が発行し、準備資産で裏付けられる。即時の国境を越えた送金に強みを持つ一方、安定性や規制、不正利用への懸念が指摘される。
CBDC(中央銀行デジタル通貨、Central Bank Digital Currency)
中央銀行が直接発行するデジタル形式の通貨。民間が発行するステーブルコインやトークン化預金とは異なり、発行主体が国家の中央銀行である点が特徴。グリーン氏のたとえでは「カメ」に当たる、慎重に進む選択肢とされた。
メーガン・グリーン
イングランド銀行の金融政策委員会(MPC)に属する政策担当者。今回、トークン化預金がステーブルコインに取って代わるとの見方を示した。
クリストファー・ウォラー
アメリカ連邦準備制度の政策担当者(理事)。今回のパネルでは、ステーブルコインを擁護する立場を取った。
トークン化預金パイロット(英国)
HSBC、NatWest、Lloydsなど英国の大手銀行が参加し、トークン化預金の実用性を検証する実証実験。業界団体UK Financeが主導し、2026年半ばまで実施される。クロスボーダー決済や住宅ローンの借り換えなどでの応用が試されている。
【参考リンク】
Bank of England(イングランド銀行)(外部)
英国の中央銀行。金融政策と金融システムの安定を担う。本件の発言者グリーン氏が所属する。
Federal Reserve(アメリカ連邦準備制度)(外部)
アメリカの中央銀行にあたる連邦準備制度。本件でステーブルコインを擁護したウォラー氏が所属する。
UK Finance(外部)
英国の銀行・金融サービス業界を代表する業界団体。約300社が加盟し、トークン化預金の実証実験を主導している。
【参考記事】
Stablecoin Supply Tops $300B as Growth Momentum Slows(外部)
供給規模が2026年初頭時点で約3100億ドルで横ばいとなり、規制と米国債利回りが発行の伸びを抑えていると伝える記事。
Stablecoins in Q1 2026: Rising Similarities With 2022(外部)
2026年第1四半期末に総供給が3150億ドルを超えた一方、純増は80億ドルにとどまり伸びが鈍化したと報じる記事。
UK banks press on with tokenised deposits after BoE stablecoin warning(外部)
英大手銀行が参加するトークン化預金パイロットが2026年半ばまで実施されると伝えるロイターの記事。
Bank of England Economist Sees Tokenized Deposits Supplanting Stablecoins(外部)
グリーン氏の発言を取り上げ、ステーブルコイン経済圏の構造的な制約を分析したPYMNTSの記事。
UK Prioritizes Tokenization Over Stablecoins in Crypto Regulation Push(外部)
英国がトークン化預金をデジタル金融戦略の中心に据えている経緯を整理した記事。
【編集部後記】
お金の歴史をふり返ると、貝殻から硬貨へ、紙幣から電子マネーへと、その姿は時代ごとに移り変わってきました。今まさに進んでいるのも、その長い変遷の一場面なのかもしれません。今回の「カメ・ウサギ・サイ」の競争で興味深いのは、最も派手に走り出したウサギ(ステーブルコイン)ではなく、地味に見えるサイ(トークン化預金)に有力な政策担当者が賭けた点です。私たちは新しい技術ほど未来に近いと感じがちですが、既存の信頼の上に新技術を載せるアプローチが、結局は社会に深く根づくのかもしれません。みなさんの財布の中身が5年後どうなっているのか、innovaTopiaは引き続き見つめていきます。