東京理科大学、シリコン量子ビットの「ノイズの正体」を解明|高温で精度が上がる謎に理論で迫る

東京理科大学(TUS)と産業技術総合研究所(AIST)の共同研究チームは、シリコンスピン量子ビットの量子ビット周波数(fq、ラーモア周波数)シフトを引き起こすノイズのメカニズムを解明した。

チームは東京理科大学電気工学科の河原尊之教授が率いた。研究では、Si/SiGe二重ヘテロ構造に形成した量子ドットのモデルを用い、二準位揺らぎ(TLF)に由来する電荷ノイズを統計的にシミュレーションした。評価したパラメータの組は108通りで、各組が5000通りのTLF配置を含む。分析の結果、20 mKより高い200 mKでゲート忠実度が改善する条件を特定し、その起源が原子スケールの構造的な動きではなく、伝導帯とトラップ準位間の電子遷移である可能性が高いと結論づけた。成果は2026年5月4日付で『IEEE Access』第14巻に掲載された。

From: 文献リンクScientists Identify the Origin of Noise in Spin Qubit Quantum Processors | Tokyo University of Science

【編集部解説】

今回の発表で押さえておきたいのは、これが新しい量子コンピュータを「作った」という話ではない、という点です。東京理科大学と産業技術総合研究所のチームが解き明かしたのは、シリコン量子ビットが見せる「ある不可解な振る舞い」の正体、つまり理論的な「なぜ」の部分でした。

その不可解な振る舞いとは、量子ビットを冷やせば冷やすほど良いはずなのに、標準的な20 mK(ミリケルビン)よりも、むしろ10倍も高い200 mKのほうがゲートの正確さ(忠実度)が改善する、という現象です。直感に反するこの観測は以前から報告されていましたが、その仕組みは謎のままでした。研究チームは、半導体と酸化膜の界面にひそむ微小な「二準位揺らぎ(TLF)」が出す電荷ノイズを、108通りの条件・各5000通りの配置という大規模なシミュレーションで再現し、謎の出どころを突き止めたのです。なお、この論文の筆頭著者は佐藤優大氏(現・産業技術総合研究所 研究員)、研究を率いたのが河原尊之教授で、東京理科大学と産業技術総合研究所の共同成果です。

ここでひとつ、専門的な核心を噛み砕いておきます。研究が示したのは、ノイズの主因が「原子そのものがゆっくり動く」ことではなく、「電子が伝導帯とトラップ準位のあいだを素早く行き来する」遷移である可能性が高い、という結論でした。原因の候補が絞り込めた、ということです。原因が原子なのか電子なのかで、対策の打ち方はまったく変わってきます。そして電子が相手であれば、半導体プロセスの作り込み、すなわち界面の品質管理という、半導体産業が長年磨いてきた土俵で勝負できることになります。

なぜ今、私たちがこのニュースを取り上げるのか。それは、この地味に見える理論研究が、量子コンピュータ業界で進む「ホット量子ビット」という大きな潮流の足場を固めるものだからです。オーストラリアのDiraqとニューサウスウェールズ大学のチームは、2024年に『Nature』でシリコンスピン量子ビットを1ケルビンより高い温度で動作させ、単一量子ビットゲートで99.85%、2量子ビットゲートで98.92%という、誤り耐性のしきい値に迫る忠実度を実証しました。今回の東京理科大学らの成果は、その実験的潮流に「理論的な裏づけ」と「設計の指針」を与えるピースだと位置づけられます。

「たかが温度」と思われるかもしれません。しかし、ここに量子コンピュータ実用化の最大級の壁が隠れています。多数の量子ビットを動かすには、それを制御する電子回路から出る熱が、極低温の冷却装置の能力を超えてしまうのです。大規模な応用に必要な数の量子ビットを動かすと、その発熱がミリケルビン環境の冷却能力を上回ってしまう——だからこそ、より冷却の余裕がある1ケルビン超での動作が切実に求められています。今回の研究は、その高温動作を「狙って実現する」ための処方箋づくりに貢献します。

この技術が拓く未来を、もう少し具体的に描いてみましょう。動作温度が millikelvin から kelvin 領域へと引き上げられれば、巨大で高価な希釈冷凍機への依存が和らぎ、量子チップと従来のシリコン制御回路を同じ低温環境に同居させる道が見えてきます。シリコンという素材が持つ「既存の半導体製造技術を活用しやすい」という最大の強みが、ここで初めて本当の意味で生きてくるのです。

一方で、過度な期待は禁物です。今回の成果はあくまでシミュレーションによる理論的な提案であり、リリースでも今後はバイアスクーリングなどによる実験的な検証が次の課題だと明記されています。提案された「電子遷移が主因」という結論が実機でどこまで裏づけられるかは、これからの研究を待つ必要があります。「謎がすべて解けた」のではなく、「最も有力な原因の候補を特定した」段階だと理解するのが、誠実な受け止め方でしょう。

規制や社会への影響という長期の視点も添えておきます。量子コンピュータが実用域に入れば、現在の暗号を解読しうる能力が議論の的になります。各国は「耐量子暗号」への移行を進めており、シリコン方式のように量産でスケールしやすい技術が成熟するほど、その移行スケジュールは現実味を帯びます。今回のような基礎研究が積み重なって初めて、社会の備えも前倒しされていくわけです。

最後に、日本という文脈も見逃せません。著者の所属は東京理科大学と産業技術総合研究所であり、テーマはまさに半導体プロセスの作り込みです。半導体の国内回帰が国家戦略として語られる今、CMOS技術の延長線上にある量子コンピュータ研究で、日本のチームが理論面の知見を世界に示した意義は、決して小さくないと考えられます。

【用語解説】

スピン量子ビット(シリコンスピン量子ビット)

電子が持つ「スピン」(小さな磁石のような向き)に量子情報を載せて、計算の最小単位(量子ビット)として使う方式だ。既存の半導体製造技術と相性がよく、大規模化に向いた有力な方式とされる。

量子ドット

ナノスケールの半導体構造で、その中に電子を閉じ込められる。外から制御できる「人工の原子」のように振る舞い、スピン量子ビットの器となる。

ゲート忠実度(gate fidelity)

量子ビットへの操作(量子ゲート)が、理想どおりに実行できている度合いを示す指標だ。最大値は100%で、高いほど誤りの少ない演算ができている。

ラーモア周波数(量子ビット共鳴周波数、fq)

磁場の中で電子スピンが歳差運動(こまのような回転)をする固有の周波数。量子ビットはこの周波数に合わせたマイクロ波で制御されるため、周波数が揺らぐと制御の精度が落ちる。

二準位揺らぎ(TLF / two-level fluctuators)

二つの状態のあいだを行き来する微小な欠陥や電荷の状態。半導体と酸化膜の界面付近に存在し、電荷ノイズの源になると考えられている。

ミリケルビン(mK)

絶対零度(−273.15℃)を基準とした温度の単位ケルビンの1000分の1。20 mK や 200 mK は、いずれも絶対零度のごく近傍にあたる極低温だ。

Si/SiGe二重ヘテロ構造

シリコン(Si)とシリコンゲルマニウム(SiGe)を積層した構造。この内部に量子ドットを形成し、電子を閉じ込めて量子ビットとして制御する。

誤り耐性量子コンピューティング(フォールトトレラント量子計算)

計算の途中で生じる誤りを訂正しながら、信頼できる結果を出し続けられる量子計算の方式。実用化の到達目標とされる。

サーフェスコード(表面符号)

量子誤り訂正の代表的な手法の一つ。一定の忠実度(しきい値)を超えると、誤りを抑え込めるようになる。

ホット量子ビット

従来の数ミリケルビンよりも高い、1ケルビン前後の「比較的高温」で動作させる量子ビットの総称。冷却の負担を減らし、大規模化を容易にする狙いがある。

【参考リンク】

東京理科大学(Tokyo University of Science)(外部)
本研究を主導した私立理系研究大学。和文プレスリリースも同大学サイトで公開されている。

東京理科大学 研究者情報データベース(河原尊之 教授)(外部)
責任著者・河原教授の所属(工学部 電気工学科)や業績を確認できる公式データベース。

産業技術総合研究所(AIST)(外部)
共同研究を担った日本の公的研究機関。著者3氏が所属する先端半導体研究センターを擁する。

IEEE Access(原論文掲載誌)(外部)
本成果が2026年5月4日付で掲載されたオープンアクセス学術誌の該当論文ページ。全文を読める。

Diraq(外部)
シリコンCMOS方式のスピン量子ビットを開発する豪州のスタートアップ。高温動作の実証で知られる。

【参考記事】

High-fidelity spin qubit operation and algorithmic initialization above 1 K(Nature)(外部)
Diraqらが2024年に発表した論文。1ケルビン超でシリコン量子ビットを動作させ、読み出しと初期化で最大99.34%を達成した。

Hot Qubits, Cool Logic(Diraq 公式ニュース)(外部)
1ケルビンで単一量子ビット99.85%、2量子ビット98.92%という最高忠実度を達成したとDiraqが解説した記事。

Diraq Makes Quantum Leap with Breakthrough Discovery(Diraq)(外部)
主要方式が絶対零度(−273.15℃)近傍の冷却を要する事情を平易に説明し、高温動作の意義を伝える発表。

Hot Spin Qubits Pushing for Fault-Tolerant Quantum Computing(Quantum Machines)(外部)
ヘリウム冷凍機が希釈冷凍機より安価で大きな冷却能力を持つ点を示し、高温動作の経済性を整理した解説。

Quantum Computing Milestone: Researchers Compute With ‘Hot’ Silicon Qubits(IEEE Spectrum)(外部)
2020年に1.5K・1.1Kでの量子ビット操作が独立に実証された、ホット量子ビット研究の起点を伝える記事。

カワハラ タカユキ 河原 尊之 教授(東京理科大学 研究者情報データベース)(外部)
著者名・所属の正確な表記を裏づけるために参照した公式データベース。河原教授の所属を確認できる。

【編集部後記】

量子コンピュータのニュースは「何量子ビット達成」といった派手な数字に目が向きがちですが、今回のように「なぜそうなるのか」を地道に詰める理論研究こそ、実用化の足腰を支えていると感じます。冷やすほど良いという常識が覆る面白さの裏に、冷却コストという現実的な制約が横たわっている——その両面を、これからも丁寧にお届けしていきたいと思います。


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